日本一危険な国宝8
12 13, 2010
三徳山 三佛寺 投入堂8 Mitokusan Sanbutsuji Nageiredou8
Kazz日本全国古の旅
日本独自の神である「蔵王権現」(金剛蔵王権現)投入堂はこの蔵王権現を祀るために造られたといわれる。
金剛蔵王権現。(こんごうざおうごんげん)
投入堂を語るときに避けては通れません。役小角が千日修行の末感得したと言われる神。通説ではあるが、この世の苦しむ人々を救おうと強く祈った役小角が、修行中何度となく現れた他の神様を退けた後、ついに、山(岩)の中から憤怒の形相と共に現れたと言われる、とてつもないスーパー神様である。全ての悪をにらみつけるように威嚇した表情や、地上の悪魔を踏みしめる左足、天と地の間にいるすべての悪を押さえつける右足、煩悩を断ち切る左手や悪を粉砕する右手の三鈷杵(さんこしょ)本当にすさまじい。
投入堂は「蔵王殿(ざおうでん)」の別名を持ち、中には7体(躯・く)の蔵王権現が祀られていた。
この7体の蔵王権現に見守られながら、数多ある修験者の人生という名の修験の道は、ここで終わりを告げず。永遠と続いていく。
Kazz zzaK(+あい。)「日本一危険な国宝・投入堂」編。実に長々と8回目になりました。前回の納経堂から残すところあと僅か。いよいよ今回最終回、投入堂と対面します。
観音堂(かんのんどう)
前回の納経堂。このお堂の建立時代は平安後期に遡る実に古いものでした。
この納経堂の直ぐ傍にあるのが、この観音堂です。この観音堂は、江戸時代の再建となり、やや新しさを感じさせます。その理由は屋根の銅板葺でしょうか。もともと観音堂は、横にある元結掛堂のように「柿葺(こけらぶき)」でしたが、何らかの理由により再建時に今の形に成ってしまったようです。
日本建築は屋根建築(個人的に)とも思えるほど多種多彩な屋根があり、それが美しさを醸し出していると思っているので、再建するならば創建時の形に限りなく忠実にして欲しいというのはありますが、少しだけ残念です。屋根の材質だけでこんなにも印象が変わってしまうとは、難しいものです。ただ、今の目線で観ると、お堂の美しさなどに目が行きがちですが、本来の目的は別の所にあるので、当時としてはこれで良かったと思われます。
元々の観音堂は何時の時代につくられたものでしょうか。
この観音堂は、やはり洞窟のような深い奥行きのある場所に造られています。前面(北面)は崖になっており、渡ることはできません。この観音堂は後ろを回るようになっています。人がひとり通れるか?というぐらい狭い通路になっており、真っ暗です。暗闇で反対側から人が来たらビックリするでしょう(笑)この通路は「胎内くぐり」になっているそうです。ゆっくりと歩き神聖な気持ちになっていきます。
只でさえ洞窟の中で暗いのに・・。観音堂の後ろは本当に真っ暗です。
元結掛堂(もとゆいかけどう)
古そうなお堂が現れました。観音堂の直ぐ横にある元結掛堂です。・・・また、この元結掛堂というのがよく分からない。(笑)
この元結掛堂は、江戸時代前期のお堂ということだが、いったいどういうものなのだろう。納経堂の場合、お経の奉納する意味があるというのはわかりそうなものであるが、元結掛堂と名の付くお堂はおそらく三徳山だけなのではないであろうか。聞いたことが無い。
元結(もとゆい)とは、マゲを結ぶ紐のことであるらしい。恥ずかしながら知らなかった。
この元結を掛ける(つまり納める)ということかな・・?
調べると、武士が修行に入る際に髪を剃り、その決意の心の表れとして、この元結掛堂に元結を納めたのだと思われる。
三徳山の気候特性に影響されるのかよくわからないが、この元結掛堂も見た目非常に古さを感じる。とても江戸前期のものとは思えないぐらいの古さだ。風食が激しい。樹木の色素も抜けていて白っぽくなっている。入母屋と切妻を合わせたような形をしていて面白い。う~ん、中々出来ないのかもしれないが・・少し手入れをしていただきたい。劣化が激しい。
さぁ、これで残る修験の道はあと少し。お堂も最後に現れる「投入堂」と「不動堂」を残すのみとなった。
【←投入堂】という手作り感一杯の立て札を横目に矢印の通り歩いていく。
ここまでくると、投入堂はすぐ傍です。
投入堂との出会い。それは確か何年か前のテレビだったと思う。
それまで自分の旅の対象といえば、主に自然景観に傾向していて、だだっ広い大地に単純にあこがれを抱いていた。必然的に海外にも足を運んだ。かなり色々な国を歩いたが、どこか違和感を感じていた。やっぱり日本だった。
自分なりの大地へのあこがれを具現化すると、日本では北海道がもっとも自分の理想に近かった。もう何年も前から長い時間を掛けた結論として、単純にだだっ広い大地にあこがれただけでなく、旅をしていく土地空間を考えたとき、最も理想に近いのが北海道だった。ということに落ち着いた。ただ、これはあくまで旅の目線であり、居住とは別だ。個人的に旅の目的地としての北海道は最高であることに揺るぎはない。実際そうした旅のスタイルを何年も続けている。もちろんそれは今でも変わらないし、続けていくと思うが、ここ数年それとは別に、先人達が築き上げてきた様々なものに興味の対象が移って来た変化を感じている。
その最も良い例は「京都」だ。
少なからず誰もが感じていると思うが、東京に住んでいれば、中学や高校の修学旅行でも何度となく行くことになると思うが、当時の血気盛んな若者の中に、純粋にお寺や神社や歴史に興味を持つ者は一体どのくらい居ただろう?
自分の周りには積極的に好きだという者は居なかったように思う。興味の対象はそんなものではなかった。自分もそうだった。また、そこにある「行く」というよりは「行かされている」団体旅行丸出しの出で立ちと意識は、歴史云々以前の問題で苦痛でしかなかった。先生にも迷惑をかけ、今思えば嫌な子供だったと思う。
それが変われば変わるものである。(笑)団体旅行は別にしても、今や毎年京都に足を運んでいる。
つまらない昔話をして申し訳ない。
そうそう、その何年か前のテレビでこの「投入堂」が紹介されていた。こうしたお堂があるということは聞いたことがあったが、それはどういったものかわらず、ただ漠然と「崖にお堂が建ってるんだって。」という言葉だけの知識でしかなかった。テレビはおろか写真ですら見たことの無かった人間に、いきなりこの映像は凄かった。
それは、本当に衝撃であった。
「何だこれは。」と。
それからというもの、自分の中の「投入堂熱」は上がる一方で、どうにか行きたいと思い続けていた。
行きたいと思うと、やはりどうにかなるものである。
そして、月日は流れ、時に2010年11月4日(金)。今、この投入堂へ続く修験の道の上に自分は居るのだ。
・・話が横にそれましたので、道中に戻します。
最後の修験の道もやや細く決して気を抜けない。山肌を右手に感じながら大きく回り込むと、それはいきなり現れます。大概こういったものは、ルート上にチラチラ見え隠れし、「あぁ、あれか」と思ったりするものなのですが、投入堂は直前まで全く姿を現しません。曲がって姿を現れたところが修験道の終点です。(帰路があるので半分)すなわち、そこが投入堂の前です。
ここまで考えられているとは思いませんが、投入堂にあこがれていた人間には劇的すぎます。
相当数の人がいることを覚悟していましたが、辺りは静寂そのもので観光客の声は全く聞こえません。宿入橋からゆっくり歩いて1時間ぐらいでしょうか、それはいきなり現れます。
やはり人は自分たち2人のようです。絶壁の中腹にそれはありました。
これが、日本が世界に誇る絶壁に建つ奇跡の建築「日本一危険な国宝」と呼ばれる、
国宝 三徳山三佛寺奥院。通称「投入堂」です。
「・・・・・。」
久しぶりに物を観て感動しました。
やはり実物は凄い迫力です。圧倒的な存在感があります。
投入堂。その姿は、勝手な想像ですが、アプローチからこれほど劇的に現れるとは予想していなかったもので、一気にテンションが上がって、頭が真っ白になりました。
かなり長い時間観ていたような気がします。可能な限りあらゆる角度から観て、写真を撮りました。
ご存じの通り投入堂への入堂は固く禁止されているので、見る方向は西側からのみになります。それは、数多く写真やテレビなどで観てきた投入堂そのものの姿ですが、ここに立つとあらゆるものが違うように感じます。
空気感や、柱の質感、匂い、何より距離があるのに投入堂そのものの存在に手が届くような感じがするから不思議です。
六根清浄、にわかにもそれが感じられたような気が少しだけします。
北向きに構える奥院「投入堂」。その姿は神々しく、蔵王殿の名に相応しい。
冷静にみてみると、華奢というか非常に繊細な線を持っています。それでいて気の遠くなるような時間を繰り返してきたオーラがあり絶壁の中腹に佇む姿は、建築物という単純な枠を越え、神々しささえ感じます。
思ったよりも小さいお堂という印象です。
・・デザインが素晴らしい。こういう形のお堂は観たことがありません。
あおり気味に観ているのでいささか厚く見えますが、これを正面からみたら、スッとしてるんだろうなぁと思います。
投入堂の正面は北側。背が高い木々は全く無く、視界は凄く開けています。真っ直ぐ凜とした姿は下界を見守る蔵王権現を祀るに相応しい佇い。まさに「蔵王殿」です。
素晴らしいとしかいいようがない。
投入堂と不動堂。不動堂までは、滑るが何とか上がれる。
投入堂横にある小さなお堂は「不動堂」。この不動堂についての情報は殆ど無く、検証してみると近世のお堂であることはほぼ間違いない。不動明王が祀られていたのかな。(未確認)この不動堂については、自分も投入堂を目の前に完全に興奮しており、注意深く観察しなかったで是非再訪したときによく観てこようと思っています。
不動堂側からの投入堂。この写真のみGXR A12 50mm。ホワイトバランスは圧倒的にデフォルトのGXRの方がDP1よりも正確である。GXRのホワイトバランスは完璧に近い。
自分の興奮ばかりが先に立ってしまった8回もの長期にわたる駄文「日本一危険な国宝 三徳山 三佛寺 投入堂」編にお付き合い下さいましてありがとうございます。
投入堂修験道レポート、あまり上手くできなく、情報として役に立ったかどうか分かりません。初めての投入堂だったので、後に思えば色々準備が足りなかったなと反省しています。
まだまだ観るべきものは沢山あったと思っております。写真の方は、数多くの方々があらゆる角度から撮影した素晴らしい写真をレポートと共にブログにアップしていますので、ここでは最小限度の写真にとどめておきます。
少しだけファンが居る投入堂CG製作。(笑)造ってみると結構建築の勉強になる。どれだけ正確な図面が入手できるかと、垂木の反りが個人的には最大のキモだと思っている。このCGの垂木にはまだ反りは加えてません。
帰宅してから投入堂の建物や歴史的背景に一層の興味を持ち、まだまだ熱は冷めそうもありません。
投入堂が日本が誇る最高建築物のひとつであるということは既に承知の事実ですが、構造的にはそれほど複雑過ぎるということは無いようです。ただ、あまりに具体的な情報が少ないため、(内部などの写真が中々無いため)一体どのような構造をしているのか、一般の方々も興味があることころだと思っています。自分は特に建築に詳しい方ではないのですが、それなりに興味があります。正確な図面などはおそらく一般には出回らないと思いつつ探しています。(実測図という名での上面・側面・正面図は入手できました。ただ、もう少し詳しいものはないだろうか。)
自分が勉強することを第一に、この投入堂を通して、個人的に超素人ながらのCGを含め構造やサイズなどを出来るだけ詳しく紹介できたら良いと思っています。番外「日本一危険な国宝・投入堂完全解剖」編でお逢いしましょう。
・・さて、そろそろ終わりの時間が来たようです。
三徳山 三佛寺 奥院。この決して大きくないお堂が自分に与えた影響は大きいものでした。
それは、ここまで生きてきて、ある程度の人生経験を重ねた自分だからなのか、今もってそれはわかりません。
日頃のめまぐるしい時間の中で生きている自分にとって、改めて自分を見返す余裕はまだまだありません。
ただ、投入堂を目の前にしていた時、なぜか中学や高校の頃、とにかく嫌で、自分と対峙することもないまま京都を後にした何の経験も持たないあの時の自分が何故か思い出されていた。一歩一歩自分を見つめながらこの修験の道を歩いてきたんだと知らず知らずのうちに体が反応したのかも知れない。何の経験もなかった未熟なあの頃の自分から比べれば、僅かな時間の中で少しだけ成長した自分を認識できた修験の道は、それだけで大きな収穫であったことは間違いないと思っています。
投入堂は非常に多くの人が訪れている場所でもありますが、普通の観光地ではなく、あくまで「修行」というスタンスで拝観を行っています。お気楽な恰好で観ることはできません。かといって、その敷居はべらぼうに高いかといえば決してそうではなく、子供からお年寄りまで、基本的に準備さえしっかりしていれば誰でも行けるところであります。
こんな風に思ってみました。
もし、仮に投入堂を観ることに、汗をかくこともなく、駐車場から2~3分の平坦な距離を歩いた後、同じような状況で観られたとするならば、どうでしょう?
果たして、苦労の末にたどり着いた時と同じ感情でいられるか、
それは多分違うでしょう。
投入堂は、この修験道あってこそ本来の姿であると思っています。
そこには、何百年も繰り返されてきた歴史の重みと、それこそ、数え切れない程の修験者を見守ってきた蔵王権現、投入堂をはじめとするお堂の数々があり、木の根の一本一本に至るまでが修験者の意志を支えています。安直に考えず、それなりの覚悟を持って歩いていただきたい。それらは皆素晴らしいものであり、この修験道は何らかのものを参拝者にもたらすことと確信しています。
12月の今日、三徳山は真っ白い雪に包まれているでしょうか。
紅葉は既にその葉を散らし、2010年もまもなく終わろうとしています。
今年は良い年になりました。
大地に助けられながら貰った緊張と感動を大事に、
何時の日かまた、修験の道を一歩一歩踏みしめ、再びこの目に焼き付けたいと思います。
それが遙か遠い日の事でないことを祈りながら。
むかしむかしのお話です。
大和の国、今の奈良県の葛城山に役小角という修行僧がいました。
役小角は法力をもって、鬼神を従い、空を飛ぶことも出来たといわれています。
ある日、役小角が聖地と修行の場を求めるため、三枚のハスの花びらを用意しました。
そして、その三枚のハスの花びらを手に持ち、
「神仏に縁の在るところに落ちよ」と、空高く投げ放ちました
三枚の花びらの内、一枚が伯耆の国、今の鳥取県三徳山へ舞い落ちました。
三徳山へ役小角が行ってみると、険しく切り立ったがけの岩山に、
ぽっかりと大穴が開いていました
役小角はこの場所にお堂を建てようと思いました。
しかし、このような場所で建てるのは簡単なことではありません。
そこで役小角は、山の麓の開けた場所に行き、そこでお堂を造ることにしました。
役小角は、完成した立派なお堂の中に蔵王権現をお祀りし、この建物を蔵王殿と名付けました。
すると役小角は、蔵王殿の前でどっかと座禅を組み、お経を唱え始めました。
そして、お堂に触れたと思った瞬間、なんと大きなお堂を持ち上げてしまったのです。
「えいっ」というかけ声と共に、お堂を放り投げました。
するとお堂は、山の上のほら穴へ、ぴたりと収まりました。
これが蔵王殿のお話しとして、今日まで伝えられています。
この蔵王殿はのちに、役小角が法力をもって投入れたことから、誰ともなく人々が
『投入堂』と呼ぶようになっていったそうです。
※三佛寺HP投入堂物語より。
※今回の扉絵「蔵王権現」とラストの投入堂空撮の写真は鳥取県ライブラリよりお借りしました。(どなたでも利用可能・詳しくは鳥取県HPまで)
最後に、今回同行いただいたFさん、ありがとうございました。東京からお疲れ様でした。お陰で投入堂を堪能できました。この場を借りて御礼を申し上げます。
Kazz日本全国古の旅
日本独自の神である「蔵王権現」(金剛蔵王権現)投入堂はこの蔵王権現を祀るために造られたといわれる。
金剛蔵王権現。(こんごうざおうごんげん)
投入堂を語るときに避けては通れません。役小角が千日修行の末感得したと言われる神。通説ではあるが、この世の苦しむ人々を救おうと強く祈った役小角が、修行中何度となく現れた他の神様を退けた後、ついに、山(岩)の中から憤怒の形相と共に現れたと言われる、とてつもないスーパー神様である。全ての悪をにらみつけるように威嚇した表情や、地上の悪魔を踏みしめる左足、天と地の間にいるすべての悪を押さえつける右足、煩悩を断ち切る左手や悪を粉砕する右手の三鈷杵(さんこしょ)本当にすさまじい。
投入堂は「蔵王殿(ざおうでん)」の別名を持ち、中には7体(躯・く)の蔵王権現が祀られていた。
この7体の蔵王権現に見守られながら、数多ある修験者の人生という名の修験の道は、ここで終わりを告げず。永遠と続いていく。
Kazz zzaK(+あい。)「日本一危険な国宝・投入堂」編。実に長々と8回目になりました。前回の納経堂から残すところあと僅か。いよいよ今回最終回、投入堂と対面します。
観音堂(かんのんどう)
前回の納経堂。このお堂の建立時代は平安後期に遡る実に古いものでした。
この納経堂の直ぐ傍にあるのが、この観音堂です。この観音堂は、江戸時代の再建となり、やや新しさを感じさせます。その理由は屋根の銅板葺でしょうか。もともと観音堂は、横にある元結掛堂のように「柿葺(こけらぶき)」でしたが、何らかの理由により再建時に今の形に成ってしまったようです。
日本建築は屋根建築(個人的に)とも思えるほど多種多彩な屋根があり、それが美しさを醸し出していると思っているので、再建するならば創建時の形に限りなく忠実にして欲しいというのはありますが、少しだけ残念です。屋根の材質だけでこんなにも印象が変わってしまうとは、難しいものです。ただ、今の目線で観ると、お堂の美しさなどに目が行きがちですが、本来の目的は別の所にあるので、当時としてはこれで良かったと思われます。
元々の観音堂は何時の時代につくられたものでしょうか。
この観音堂は、やはり洞窟のような深い奥行きのある場所に造られています。前面(北面)は崖になっており、渡ることはできません。この観音堂は後ろを回るようになっています。人がひとり通れるか?というぐらい狭い通路になっており、真っ暗です。暗闇で反対側から人が来たらビックリするでしょう(笑)この通路は「胎内くぐり」になっているそうです。ゆっくりと歩き神聖な気持ちになっていきます。
只でさえ洞窟の中で暗いのに・・。観音堂の後ろは本当に真っ暗です。
元結掛堂(もとゆいかけどう)
古そうなお堂が現れました。観音堂の直ぐ横にある元結掛堂です。・・・また、この元結掛堂というのがよく分からない。(笑)
この元結掛堂は、江戸時代前期のお堂ということだが、いったいどういうものなのだろう。納経堂の場合、お経の奉納する意味があるというのはわかりそうなものであるが、元結掛堂と名の付くお堂はおそらく三徳山だけなのではないであろうか。聞いたことが無い。
元結(もとゆい)とは、マゲを結ぶ紐のことであるらしい。恥ずかしながら知らなかった。
この元結を掛ける(つまり納める)ということかな・・?
調べると、武士が修行に入る際に髪を剃り、その決意の心の表れとして、この元結掛堂に元結を納めたのだと思われる。
三徳山の気候特性に影響されるのかよくわからないが、この元結掛堂も見た目非常に古さを感じる。とても江戸前期のものとは思えないぐらいの古さだ。風食が激しい。樹木の色素も抜けていて白っぽくなっている。入母屋と切妻を合わせたような形をしていて面白い。う~ん、中々出来ないのかもしれないが・・少し手入れをしていただきたい。劣化が激しい。
さぁ、これで残る修験の道はあと少し。お堂も最後に現れる「投入堂」と「不動堂」を残すのみとなった。
【←投入堂】という手作り感一杯の立て札を横目に矢印の通り歩いていく。
ここまでくると、投入堂はすぐ傍です。
投入堂との出会い。それは確か何年か前のテレビだったと思う。
それまで自分の旅の対象といえば、主に自然景観に傾向していて、だだっ広い大地に単純にあこがれを抱いていた。必然的に海外にも足を運んだ。かなり色々な国を歩いたが、どこか違和感を感じていた。やっぱり日本だった。
自分なりの大地へのあこがれを具現化すると、日本では北海道がもっとも自分の理想に近かった。もう何年も前から長い時間を掛けた結論として、単純にだだっ広い大地にあこがれただけでなく、旅をしていく土地空間を考えたとき、最も理想に近いのが北海道だった。ということに落ち着いた。ただ、これはあくまで旅の目線であり、居住とは別だ。個人的に旅の目的地としての北海道は最高であることに揺るぎはない。実際そうした旅のスタイルを何年も続けている。もちろんそれは今でも変わらないし、続けていくと思うが、ここ数年それとは別に、先人達が築き上げてきた様々なものに興味の対象が移って来た変化を感じている。
その最も良い例は「京都」だ。
少なからず誰もが感じていると思うが、東京に住んでいれば、中学や高校の修学旅行でも何度となく行くことになると思うが、当時の血気盛んな若者の中に、純粋にお寺や神社や歴史に興味を持つ者は一体どのくらい居ただろう?
自分の周りには積極的に好きだという者は居なかったように思う。興味の対象はそんなものではなかった。自分もそうだった。また、そこにある「行く」というよりは「行かされている」団体旅行丸出しの出で立ちと意識は、歴史云々以前の問題で苦痛でしかなかった。先生にも迷惑をかけ、今思えば嫌な子供だったと思う。
それが変われば変わるものである。(笑)団体旅行は別にしても、今や毎年京都に足を運んでいる。
つまらない昔話をして申し訳ない。
そうそう、その何年か前のテレビでこの「投入堂」が紹介されていた。こうしたお堂があるということは聞いたことがあったが、それはどういったものかわらず、ただ漠然と「崖にお堂が建ってるんだって。」という言葉だけの知識でしかなかった。テレビはおろか写真ですら見たことの無かった人間に、いきなりこの映像は凄かった。
それは、本当に衝撃であった。
「何だこれは。」と。
それからというもの、自分の中の「投入堂熱」は上がる一方で、どうにか行きたいと思い続けていた。
行きたいと思うと、やはりどうにかなるものである。
そして、月日は流れ、時に2010年11月4日(金)。今、この投入堂へ続く修験の道の上に自分は居るのだ。
・・話が横にそれましたので、道中に戻します。
最後の修験の道もやや細く決して気を抜けない。山肌を右手に感じながら大きく回り込むと、それはいきなり現れます。大概こういったものは、ルート上にチラチラ見え隠れし、「あぁ、あれか」と思ったりするものなのですが、投入堂は直前まで全く姿を現しません。曲がって姿を現れたところが修験道の終点です。(帰路があるので半分)すなわち、そこが投入堂の前です。
ここまで考えられているとは思いませんが、投入堂にあこがれていた人間には劇的すぎます。
相当数の人がいることを覚悟していましたが、辺りは静寂そのもので観光客の声は全く聞こえません。宿入橋からゆっくり歩いて1時間ぐらいでしょうか、それはいきなり現れます。
やはり人は自分たち2人のようです。絶壁の中腹にそれはありました。
これが、日本が世界に誇る絶壁に建つ奇跡の建築「日本一危険な国宝」と呼ばれる、
国宝 三徳山三佛寺奥院。通称「投入堂」です。
「・・・・・。」
久しぶりに物を観て感動しました。
やはり実物は凄い迫力です。圧倒的な存在感があります。
投入堂。その姿は、勝手な想像ですが、アプローチからこれほど劇的に現れるとは予想していなかったもので、一気にテンションが上がって、頭が真っ白になりました。
かなり長い時間観ていたような気がします。可能な限りあらゆる角度から観て、写真を撮りました。
ご存じの通り投入堂への入堂は固く禁止されているので、見る方向は西側からのみになります。それは、数多く写真やテレビなどで観てきた投入堂そのものの姿ですが、ここに立つとあらゆるものが違うように感じます。
空気感や、柱の質感、匂い、何より距離があるのに投入堂そのものの存在に手が届くような感じがするから不思議です。
六根清浄、にわかにもそれが感じられたような気が少しだけします。
北向きに構える奥院「投入堂」。その姿は神々しく、蔵王殿の名に相応しい。
冷静にみてみると、華奢というか非常に繊細な線を持っています。それでいて気の遠くなるような時間を繰り返してきたオーラがあり絶壁の中腹に佇む姿は、建築物という単純な枠を越え、神々しささえ感じます。
思ったよりも小さいお堂という印象です。
・・デザインが素晴らしい。こういう形のお堂は観たことがありません。
あおり気味に観ているのでいささか厚く見えますが、これを正面からみたら、スッとしてるんだろうなぁと思います。
投入堂の正面は北側。背が高い木々は全く無く、視界は凄く開けています。真っ直ぐ凜とした姿は下界を見守る蔵王権現を祀るに相応しい佇い。まさに「蔵王殿」です。
素晴らしいとしかいいようがない。
投入堂と不動堂。不動堂までは、滑るが何とか上がれる。
投入堂横にある小さなお堂は「不動堂」。この不動堂についての情報は殆ど無く、検証してみると近世のお堂であることはほぼ間違いない。不動明王が祀られていたのかな。(未確認)この不動堂については、自分も投入堂を目の前に完全に興奮しており、注意深く観察しなかったで是非再訪したときによく観てこようと思っています。
不動堂側からの投入堂。この写真のみGXR A12 50mm。ホワイトバランスは圧倒的にデフォルトのGXRの方がDP1よりも正確である。GXRのホワイトバランスは完璧に近い。
自分の興奮ばかりが先に立ってしまった8回もの長期にわたる駄文「日本一危険な国宝 三徳山 三佛寺 投入堂」編にお付き合い下さいましてありがとうございます。
投入堂修験道レポート、あまり上手くできなく、情報として役に立ったかどうか分かりません。初めての投入堂だったので、後に思えば色々準備が足りなかったなと反省しています。
まだまだ観るべきものは沢山あったと思っております。写真の方は、数多くの方々があらゆる角度から撮影した素晴らしい写真をレポートと共にブログにアップしていますので、ここでは最小限度の写真にとどめておきます。
少しだけファンが居る投入堂CG製作。(笑)造ってみると結構建築の勉強になる。どれだけ正確な図面が入手できるかと、垂木の反りが個人的には最大のキモだと思っている。このCGの垂木にはまだ反りは加えてません。
帰宅してから投入堂の建物や歴史的背景に一層の興味を持ち、まだまだ熱は冷めそうもありません。
投入堂が日本が誇る最高建築物のひとつであるということは既に承知の事実ですが、構造的にはそれほど複雑過ぎるということは無いようです。ただ、あまりに具体的な情報が少ないため、(内部などの写真が中々無いため)一体どのような構造をしているのか、一般の方々も興味があることころだと思っています。自分は特に建築に詳しい方ではないのですが、それなりに興味があります。正確な図面などはおそらく一般には出回らないと思いつつ探しています。(実測図という名での上面・側面・正面図は入手できました。ただ、もう少し詳しいものはないだろうか。)
自分が勉強することを第一に、この投入堂を通して、個人的に超素人ながらのCGを含め構造やサイズなどを出来るだけ詳しく紹介できたら良いと思っています。番外「日本一危険な国宝・投入堂完全解剖」編でお逢いしましょう。
・・さて、そろそろ終わりの時間が来たようです。
三徳山 三佛寺 奥院。この決して大きくないお堂が自分に与えた影響は大きいものでした。
それは、ここまで生きてきて、ある程度の人生経験を重ねた自分だからなのか、今もってそれはわかりません。
日頃のめまぐるしい時間の中で生きている自分にとって、改めて自分を見返す余裕はまだまだありません。
ただ、投入堂を目の前にしていた時、なぜか中学や高校の頃、とにかく嫌で、自分と対峙することもないまま京都を後にした何の経験も持たないあの時の自分が何故か思い出されていた。一歩一歩自分を見つめながらこの修験の道を歩いてきたんだと知らず知らずのうちに体が反応したのかも知れない。何の経験もなかった未熟なあの頃の自分から比べれば、僅かな時間の中で少しだけ成長した自分を認識できた修験の道は、それだけで大きな収穫であったことは間違いないと思っています。
投入堂は非常に多くの人が訪れている場所でもありますが、普通の観光地ではなく、あくまで「修行」というスタンスで拝観を行っています。お気楽な恰好で観ることはできません。かといって、その敷居はべらぼうに高いかといえば決してそうではなく、子供からお年寄りまで、基本的に準備さえしっかりしていれば誰でも行けるところであります。
こんな風に思ってみました。
もし、仮に投入堂を観ることに、汗をかくこともなく、駐車場から2~3分の平坦な距離を歩いた後、同じような状況で観られたとするならば、どうでしょう?
果たして、苦労の末にたどり着いた時と同じ感情でいられるか、
それは多分違うでしょう。
投入堂は、この修験道あってこそ本来の姿であると思っています。
そこには、何百年も繰り返されてきた歴史の重みと、それこそ、数え切れない程の修験者を見守ってきた蔵王権現、投入堂をはじめとするお堂の数々があり、木の根の一本一本に至るまでが修験者の意志を支えています。安直に考えず、それなりの覚悟を持って歩いていただきたい。それらは皆素晴らしいものであり、この修験道は何らかのものを参拝者にもたらすことと確信しています。
12月の今日、三徳山は真っ白い雪に包まれているでしょうか。
紅葉は既にその葉を散らし、2010年もまもなく終わろうとしています。
今年は良い年になりました。
大地に助けられながら貰った緊張と感動を大事に、
何時の日かまた、修験の道を一歩一歩踏みしめ、再びこの目に焼き付けたいと思います。
それが遙か遠い日の事でないことを祈りながら。
むかしむかしのお話です。
大和の国、今の奈良県の葛城山に役小角という修行僧がいました。
役小角は法力をもって、鬼神を従い、空を飛ぶことも出来たといわれています。
ある日、役小角が聖地と修行の場を求めるため、三枚のハスの花びらを用意しました。
そして、その三枚のハスの花びらを手に持ち、
「神仏に縁の在るところに落ちよ」と、空高く投げ放ちました
三枚の花びらの内、一枚が伯耆の国、今の鳥取県三徳山へ舞い落ちました。
三徳山へ役小角が行ってみると、険しく切り立ったがけの岩山に、
ぽっかりと大穴が開いていました
役小角はこの場所にお堂を建てようと思いました。
しかし、このような場所で建てるのは簡単なことではありません。
そこで役小角は、山の麓の開けた場所に行き、そこでお堂を造ることにしました。
役小角は、完成した立派なお堂の中に蔵王権現をお祀りし、この建物を蔵王殿と名付けました。
すると役小角は、蔵王殿の前でどっかと座禅を組み、お経を唱え始めました。
そして、お堂に触れたと思った瞬間、なんと大きなお堂を持ち上げてしまったのです。
「えいっ」というかけ声と共に、お堂を放り投げました。
するとお堂は、山の上のほら穴へ、ぴたりと収まりました。
これが蔵王殿のお話しとして、今日まで伝えられています。
この蔵王殿はのちに、役小角が法力をもって投入れたことから、誰ともなく人々が
『投入堂』と呼ぶようになっていったそうです。
※三佛寺HP投入堂物語より。
※今回の扉絵「蔵王権現」とラストの投入堂空撮の写真は鳥取県ライブラリよりお借りしました。(どなたでも利用可能・詳しくは鳥取県HPまで)
最後に、今回同行いただいたFさん、ありがとうございました。東京からお疲れ様でした。お陰で投入堂を堪能できました。この場を借りて御礼を申し上げます。