16角への誘い。重要文化財 野木町ホフマン煉瓦窯が凄かった。

03 25, 2017
野木町扉
建物記ファイル№0067
野木町煉瓦窯・旧下野煉化製造会社煉瓦窯
Nogimachi-rengagama

さて、
前回のエントリーは深谷にある旧煉瓦製造施設を訪れました。ここは東京駅赤坂離宮日銀などの建材煉瓦を造っていた工場でもあります。
煉瓦にそれ程興味があったわけでは無かったのですが、日頃から目にしている建物の建材がいったいどのように造られているのかを知ることは面白かったし、何より勉強になった。
煉瓦窯自体が貴重なものだというのは知っていましたが、具体的なことが何一つとして分からなかった(知らなかった)ため、今回の旅行は結構な衝撃でした。(笑)良かったのは、同日に深谷と野木町を回ったこと。これによりそれぞれを補完する情報が得られた。具体的には、深谷は窯などの建築的なハードは野木町に劣るが、資料的なソフトや歴史的背景が充実。野木町は建築は完璧だが、資料がやや乏しい。
自分も予習的に浅い知識を詰め込んでいったのですが、やっぱり実物は凄いものです。特に野木町が刺さった。
深谷のホフマン6号窯も良かったのですが、見学できる部分は一部に限られ、特に二階部分が見えなかったので全体像が掴みにくかったが、こちらはほぼ完全な形で現存している。この視覚的な差が印象を大きくしたと思う。
ちなみにですが、現在日本に現存するホフマン窯は4基しかありません。埼玉県深谷市と、ここ栃木県野木町京都滋賀にそれぞれ1基づつ。ただし、京都と滋賀のホフマン窯は残念ながら現在一般公開されていません。それだけ貴重な建物ということでしょう。
DSCF1315.jpg
まず、何はなくともこの外見です。外見的な野木町の窯は一目瞭然、建築好きにとって非常に魅惑的な建物になっています。
六角堂や八角堂っていうのは結構あるんですけど、16角っていうのはなかなか聞いたことがありません。しかも、御堂の六角や八角と違い、この窯の16角には明らかに必然性がある。故に、これは決して奇をてらったデザインありきの建物では無く、効率的な発想理念からうまれた必然的な形なのである。
screenshot_3137.jpg
実はこの野木町煉瓦窯は、度重なる地震の影響で長い間修理に入っていた。およそ10ヶ月前、平成28年の5月に修理から復活したばかり。まだ一年も経っていないので、見えるところは旧さの中にも真新しさを感じるほどである。
昔サーカス小屋のような形でこういうのを見たことがあるが、それでも16角はなかったぞ。(笑)
入口が各部屋にあり独立しているわけでは無く、中で繋がっている。輪窯であるので役割は全て同じ。この16部屋の内の何部屋かが燃焼専用室・・・というわけではないのだ。すべてが同じ役割を担っている。各部屋に煙道ががあり、煙はそこを通り煙突から排出されている。
外観的な特徴といえば、この窯には二階への出入り口とも言える階段が対極に二カ所設けてある。粉炭などの燃料を上に上げるためだ。一見何の変哲も無いような階段だが、登りやすいようにステップが自分側に傾いているのが面白い。何十キロもの粉炭を一日何往復もするのはかなりの重労働。少しでも軽減しようとする知恵だ。実際に登ってみたが、かなり登りやすい。ただ、上りが楽な分、下りは膝に来る。(笑)
DSCF1333.jpg
screenshot_3139.jpg
DSCF1383.jpg
分かりにくいかもしれないが、各ステップ手前側に傾斜が付いている。段差は低くゆるーいバリアフリーのスロープのようだ。確かに足下が見えなくても上がりやすい。
そして、そこを上がると、普通では見慣れない景色が広がっている。
nogi.jpg
というわけで、先に二階部分に上がってみた。
深谷のホフマン六号窯と違い、野木町ホフマンは二階があり、完全公開されている。(深谷六号窯は三階建てだが、公開は一階の窯部分のみ)
この貴重な光景が見られるのはここ野木町だけだ。
関係ないが、自分はこのデザインというか空間的なビジュアルが非常に美しく感じ、凄く気に入った。(笑)
DSCF1422.jpg
形自体はそれ程複雑では無い。屋根の木材や耐震のためアンカー、補強が見られるが、それを外すとかなりシンプルだ。中央部分が凹になっており、一段低い。粉炭は一段高い部分から投入することになる。上段部に円形にレールが敷かれ、重い荷物を運ぶために炭車という小型のトロッコのようなものが使用された。尚、写真にある円形に組まれたコンパネは、床が傷まないように見学者のために敷かれたもので窯には何ら関係ない。
とう
一段高い部分には、投炭孔(とうたんこう)と呼ばれる粉炭を入れる穴が規則正しく並ぶ。この投炭孔が一階の各16部屋とそれぞれ繋がっている。
この投炭孔の蓋は別の場所で持つことができたのだが、見た目ほど重くなく、何度も開けたり閉めたりするため非常に軽く造られているのでビックリした。
screenshot_3145.jpg
二階部分の簡易CGを作ってみた。(かなりデフォルメ・笑)基本的な部分はこんな感じだと思う。
投炭孔は扇型に5列に並ぶ。ただ、各部屋の境目が二階からではわからないので「一部屋につき何個か?」というと、地味に一階部分を数えるしかない。(笑)なので、ここでは不明とさせていただく。
炭車の為のレールは内側と外側に配列されているが、炭車自体は現存していない。資料も多分残っていないようなので復元しようがないのだろうが、推定でも良いので復元したら良いのではと感じた。
DSCF1351.jpg
それにしても唯一無二、独特の空間。
何度も言うようだが、薄暗い中に投炭孔が鈍く輝る様は、何かSF映画のワンシーンを見るようで感性を揺さぶられる。
もしかしたら、人が全くおらず独占で長い時間見ることができたのが、そういったものを呼び起こしたのかもしれない。だけど、この後、ここは子供の運動場と化す。(笑)
ento.jpg
中央には八角形の煙突が聳え立つ。投入口の様に見える部分から縦に入った亀裂が生々しい。これは関東大震災の際入ったものだそうだ。
DSCF1439.jpg
DSCF1447-1.jpg
燃焼に伴う熱や煙は煙道を通り、煙突へ抜ける。煙突自体は二つの空間に分けられ煙を排出しているようだ。
各解説は図解や写真付きで分かりやすい。
dannpa-
そして、煙突により近い部分にある、これが煙を制御するダンパー開閉器とよばれるものだ。引くとこのような形になる。更にこの下にダンパー本体部分がある。
dannpa- 2
DSCF1447-3.jpg
DSCF1447-2.jpg
ダンパーは、煙を遮蔽するのは勿論だが、寧ろ開け閉めすることにより空気の流れを制御するものと考えた方がいい。部屋が連動しているため燃焼していない部屋のダンパーを開けると空気の流れが出来、一気に動く。その熱を利用し、乾燥や余熱を行う。このダンパーは各部屋につきひとつあるので、合計16基あることになる。
DSCF1417-1.jpg
screenshot_3140.jpg
断面図を立体にするとこんな感じになる。写真を見る限りでは、煙排出に伴うダンパーの動きは単純な開閉だけのようだ。
screenshot_3142.jpg
screenshot_3143.jpg
さらに一部屋を単純にCG化するとこんな感じか。黄色い矢印は煙の位置。ダンパーは赤、ダンパー開閉器は青。
断面図からだとダンパーとダンパー開閉器の間に空間はひとつ。
screenshot_3126-1.jpg
screenshot_3135.jpg
燃焼システムについては、CGに起こして更に分かりやすくしようとしたのですが、本家のパンフレットの方が遙かに分かりやすいことがわかり、中途半端になってしまった・・・(苦笑)このパンフレットは非常に分かりやすく描かれており、野木町のホームページからダウンロード可能(PDF)ですので、興味のある方はご覧になるとこの輪窯のシステムがよくわかると思います。
野木町・ホフマン窯のPDF
DSCF1407-1.jpg
さて、
窯の方(一階)にもどるのですが、ここ野木町ホフマン窯では観光客のために窯の見せ方にも工夫がされています。
手法はふたつあり、ひとつは、補強部を見せないこと。これにより、オリジナルに近い状態で窯を感じることができます。煉瓦は基本耐震的に弱いためかなりの苦労が想像できます。また、当然ながらコストも掛かります。
DSCF1414.jpg
逆に補強部を見せる手法も取り入れています。これは、どのように補強したのか、その状態を知って貰うことが第一。また、隠す補強よりもコストが安いことが主な理由です。
写真は16部屋のうち最初期に点火する点火窯(ロストル)を復元したもの。これは点火が終了すると壊してしまうそうです。
輪窯とはいえ、勿論半永久的に火を点けっぱなしというわけではなく、何回かはメンテナンスなどのため停止したそうです。その度にこういった点火口を作る必要があります。すぐ壊しちゃうんで勿体ないんですけどね。
DSCF1375.jpg
各入口はこんな感じになっている。当然ながら燃焼中の位置によっては、完全に塞がれる場所も出てくる。何度も塞いだり開けたりしていると当然ながら傷みも早い。こうした建物は周りに何も無い場合やはり南側から痛み始める。煉瓦だけにところどころ雨などに浸食され溶けている部分も多い。
ただ、この入口はかなり状態の悪いものを敢えて撮ったもの。他は修復もしたことも有り、状態は良い。
各部屋に関しては深谷のホフマン6号窯と基本的に同じだ。
ennto.jpg
右は少し前に行った韮山反射炉の煙突部。野木町の方も耐震補強はしたそうだが、高さがあるだけに大変だったそうだ。
関東大震災の際に煙突に裂け目が入ったのは先述したが、その際に崩落した煙突の一部が残っている。
DSCF1485-11.jpg
これは修復の際見つかったそうだが、何と!窯の二階部分に埋め殺しにされていたそうだ。重くて分解できなかったのだろうか。ただ、その事故が幸いしたが故に当時の煙突も貴重な資料としてこうして目にすることができるわけだ。
DSCF1490-2.jpg
あまり長くなりすぎるのでこの辺にしておこうと思うのだが・・・。
ここ、野木町のホフマン窯、これだけのものを見せてくれて入場料はたったの100円(中学生以下無料!・ガイド付)だ。安いのは良いのだが、個人的には整備費用も含めもう少し取ってもいいんじゃないかと思う。
日本近代化に大きく貢献したここ野木町のホフマン窯。パンフレットによると、栃木県内には赤レンガ造りの建物がいくつかあるが、それがここ野木町のホフマン窯で焼かれたかどうかというのは、確実なものを含めるとそれ程無いそうだ。おそらく焼かれたのではあろうけど、記録が残っていないらしい。自分も帰り際、ひときわ目立つ煙突を見つけた。西堀酒造煉瓦煙突。ここは野木町のホフマン窯で焼かれたという記録が残っている。
野木町ホフマン窯は16部屋あり、一室約14,000個を焼くことが出来る。全室では約220,000個焼成温度は約1000度で、123日掛けて一周したという。

二回にわたり日本の近代化に大いに貢献してきた煉瓦(会社)についてエントリーしてきた。普段目にする煉瓦の建物については多少の知識はあったにせよ、建材としての煉瓦に目を向けることは無かった。
貴重な建物を見られた喜びを関係者各位にお伝えしたい。
ありがとうございました。
日本で希に見る16角の魅惑の建造物に誘われ、これからは煉瓦造りの建物の見る目が大きく変わりそうだ。



週末はまさにロック(岩)フェスティバル! 深谷・旧煉瓦製造施設(埼玉)〜野木町煉瓦窯・旧下野煉化製造会社煉瓦窯(栃木)〜大谷資料館・大谷寺(栃木)が凄く面白かった。

03 17, 2017
DSCF1318.jpg
建物記ファイル№0066
日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設
Nihon renga seizou sisetsu

さて、この扉の一見何だか分からない建物写真についての話しは、次に出てきます。(笑)
エントリーについては、水戸の話を進めてたんだけど、仕事のストレス(笑)か、週末はとても部屋にいられる状況じゃないので、サクッと近場に出掛けてみた。
とはいえ、単純に温泉に浸かりに行くだけの旅は嫌だし、やはり何か勉強したり、歴史を絡めた旅にしたいので、そういった場所があるかどうかをさらに調べてみた。そうすると、・・・あるじゃないですか。
大概の人は興味あるかどうか分からないんですけど、話しは明治時代の建材、煉瓦の話しになります。
今回はそんな煉瓦の旅をすべく、埼玉と栃木に行ってきました。

では、まずは深谷からいきましょうか。ちなみになんですけど、扉の写真、この謎の建物(笑)はインパクトがあるので扉にしましたが、栃木の方のものです。

ところで、
日本といえば、世界には木造建築の国として名を馳せていますが、木造建築の「火に弱い」という最大の弱点を克服するために明治政府がとった近代化と共に建築技術も入り、各地で煉瓦造りの建物が造られるようになった。ところが、根本的な問題である地震に弱いというオチがあってかなり減っちゃうんだけど、今でも東京駅を始めとする赤レンガの建物は明治時代を象徴する雰囲気のあるものとして世間には認識されております。
それで、こういった一連の煉瓦建築の窯元はどこだろうと調べてみたら、それは東京から程なく近い埼玉県深谷市にある
「日本煉瓦製造株式会社・旧煉瓦製造施設」ということろであることが分かりました。会社自体は既に無いのですが、建物の一部は現存しており、一般公開もされています。

時にして明治の初め、政府は欧米に対抗すべく霞ヶ関付近に一極集中型の「官庁集中計画」を立ち上げ、それを象徴するパリや倫敦に引けをとらないバロック調の建物を造るため臨時建設局なるものを造りました。
とはいえ、こうした建物を建設するためには大量の建材、つまり、煉瓦が必要となってくるわけです。
東京近郊でも僅かに煉瓦を造ってはいたものの、この計画にはとてもじゃないが生産が間に合いません。また、東京近郊の製作された煉瓦や土質を調べたところ、脆すぎたため求めている建材としての煉瓦には不適格で、まったくもって使えないことがわかり、結局、関東圏の地質を調べる運びとなりました。
一方で、政府には金が無いため工場を官営と出来ず、資金面と工場設立の両面から実業家の重鎮である渋沢栄一に白羽の矢を立て(泣きすがり・笑)、大量生産が可能な煉瓦工場の設立を要請しました。
渋沢栄一といえば現在の埼玉県深谷市出身です。渋沢は古くから地元周辺で瓦生産が盛んなことを一案に、これが煉瓦に適しているのでは無いかと考えチームと調査をします。結局、この考えはずばり当たり、この地が煉瓦生産に最適だというお墨付きを貰うことが出来ました。
最終的に、埼玉県深谷市が選ばれた理由はいくつかあり、まずは、
元々瓦などの生産が盛んだったこと、
煉瓦の材料として良質な粘土がとれたこと、
東京までの舟運が見込めたこと、などが挙げられます。

こうした政府の難題を渋沢栄一は地元の上敷免村にすることで一気に解決し、工場の建設が始まります。
fukaya1.jpg
その拠点となったのがここです。何にせよ専用の鉄道線を敷設していたぐらいですからその規模は半端ない・・・はずなんですが、現在は建物らしき建物は殆ど無く、別の会社が入っているようです。
現在一般公開されている旧煉瓦製造施設ですが、入場は無料で駐車場も無料。10台ぐらいは駐車できます。
見所は、重要文化財に指定されている旧事務所・変電室・唯一残った「ホフマン式輪窯六号窯」です。いずれも重要文化財に指定されています。
まず、事務所なんですが、珍しい木造の洋風建築。ゲートの煉瓦も当時のままだそうです。但し、建物は移動して現在の場所に置かれたそうです。
fukaya2.jpg
fukaya3.jpg
当時の会社のシンボルマークです。オリジナルだそうです。
fukaya5.jpg
旧事務所の中は現在資料館になっています。当時はドイツから技術招聘された煉瓦技師チーゼの居宅兼事務所だったそうです。貴重な文献や煉瓦の展示なども有り、かなり詳しくなります。(笑)
そして、メインの「ホフマン式輪窯六号窯」です。
fukaya6.jpg
まず、外観なんですが、ごらんのようにもの凄くでかいプレハブ小屋みたいな中にでかい煙突が突き出ているだけの簡素な建物です。現代のトタンによって覆われた建築的にもこれ以上でもこれ以下でも無い建物です。見た目は。(笑)
けれど、煙突の中央部のデザインが変わってますね。本来ならストレートでも良いんですが、強度などの問題でしょうか?特に意味は無いのかもしれませんね。
深谷4
見た目はこんな感じですが、さすがに重要文化財。警備は厳重で自由に出入りすることはできません。ガイドの方に付き添っていただき中に入ります。入口は右側。
ちなみになんですが、ここホフマン六号窯、以前は事前予約制で、なおかつ10人以上が必要でした。今回私も見ることは出来ないと思っていたんですが、二人にも拘わらず案内していただきました。聞くところによると、少し前から10人以下、予約無しでも案内しているということでした。そういった情報が無かったので、これはラッキーです。ただ、一応訪れる前に電話した方が良いと思います。
ふかや6
煉瓦窯に入るなんて初体験ですので少しワクワクします。人が中で作業するので、それなりに大きくないと効率が悪いかと思いますが入口は結構狭いです。が、入口こそ屈まないと入れないぐらいですが、予想以上に中は広いですね。
fukaya9.jpg
地下迷路のような独特の空間です。
fukaya4.jpg
fukaya10.jpg
先ほどの資料館に六号窯の模型(撮影可)がありましたので、ここで見てみますと、内部はこのようになっています。
今、入口を入ったハーフパイプ状の燃焼室にいます。一応この窯は「輪窯」ということなんですが、実際は円形では無く、楕円形というか、陸上競技場のようなオーバル型のようです。ですので、直線部分があります。この直線が25mぐらいあるそうです。
screenshot_3124.jpg
全体的な考え方としての一階部分はこんな感じだと思います。ハーフパイプ状のオーバルみたいな部分が燃焼室で、一般の人が見学できる部分は、カーブの突端部の一部。煙突の根元とかはちょっと見ることができないんですけど、煉瓦を焼くシステムの大まかな部分は体感できると思います。
fukaya21.jpg
このオーバル部分全てに煉瓦が積まれ、その部屋を18部屋に分けます。一つの部屋に18,000個を積み上げ一気に焼き上げます。計算では約320,000個程度の煉瓦が焼き上がるわけです。ひえ〜・・・。
ここで東京駅の駅舎の煉瓦などが焼かれたと思うと意味も無く感動。
fukaya14.jpg
焼き上げるイメージが掴めなかったんですが、壁を見ると所々穴が空いており、この穴から燃焼した粉炭を投入します。
この六号窯は現在一階部分しか見ることができませんが、実は三階建ての建物で、最上階は熱を利用した乾燥室になっています。一度火を入れると三交代制で火を絶やすこと無く焼き上げたそうです。

六号窯は広いんですが、見学は一部分しか見ることができません。でも、多くは見学できる部分と似ている構造なので充分です。今まで煉瓦の大量生産現場を見たことが無かったので大変勉強になりました。
fukaya17.jpg
資料室には数々の煉瓦が並びます。(撮影可)
刻印によりどこ産のものか分かるようになっています。
fukaya20.jpg
先述したんですが、ここ旧煉瓦製造施設には敷地内にもう一つ重要文化財があります。
それが、この旧変電室
敷設された専用線を蒸気から電動機に切り替えるために市内で初めて電灯線を引き、変電室として建てられたそうです。
それ程大きくなく、間口が約6m、奥行きは4mの建物です。内部は残念ながら非公開です。
fukaya1147.jpg
そして、重要文化財が少し離れた場所にもうふたつあります。
それが、この備前渠鉄橋歩いてすぐです。現在は遊歩道。
高崎線深谷駅〜工場までの約4キロを結んだ日本初の専用線。その遺産です。
fukaya114.jpg
それで、わずか何メートルか先に付属する煉瓦アーチ橋が隠れてます。こちらも重要文化財です。
小さいながらも完全な煉瓦アーチ橋として使用された貴重な文化財です。
一度見逃して戻ったぐらいですので、見逃さないように。

というわけで、
fukaya11478.jpg
深谷の旧煉瓦製造施設は個人的にかなり面白かったです。勉強にもなりましたし、観光客は土曜日にも拘わらずそれ程居ないのでゆっくり見ることができます。ただ、突然世界遺産になるかもしれないので、(笑)今のうちに行っておくことをお勧めします。

そして、
冒頭の写真に戻ります。
DSCF1318.jpg
こちらは栃木県の野木町にあるもうひとつのホフマン式輪窯「野木町煉瓦窯」
深谷の六号窯とはかなり見た目が違います。オーバル型の六号窯に対し、こちらは16角形!!しかもむき出し!
歴史を兼ね備えた16角形のこれだけの建造物が日本にあったとは!!
このビジュアルだけでもなんかワクワクしませんか?(笑)かなりテンションが上がります。
nogi.jpg
この野木町の煉瓦窯、深谷との決定的な違いは、二階まで見学可能なこと。これにより、より詳細に、深く煉瓦製造を知ることができます。
次回は少しだけ、こちらをエントリーします。



日本でここだけ。唯一の平面形式を持つ極めて貴重な寺院建築、竜禅寺三仏堂

12 03, 2016
DSCF5776.jpg
建物記ファイル№0065
竜禅寺三仏堂
Ryuzenji-Sanbutsudou

さて、
少し前に予告しておいた「日本唯一」の肩書きを持つ寺院建築。ようやく。
早速もったいぶらずにいってみようと思いますが、それが、ここ茨城県牛久市、竜禅寺三仏堂です。
もう、外観から見て何か凄くないですか?(笑)
サイドに張り出した裳階のようなもの。これを初めて見たとき自分はなぜかレーシングカーのリアビューを思い出してしまったんですよね。タイヤに被さるオーバーフェンダー的な感じで、有無を言わさぬ迫力があります。
そして、ちょっと、この屋根は・・・?
茅葺きですか?
茅葺きというと、白川郷のような山間部の豪雪地帯の古い住宅というイメージがありますが、こうした住宅街にいきなり現れると、なかなかの違和感を感じます。聞くところによると、この竜禅寺三仏堂、元々茅葺きでは無かったようですが、近年の解体修理の際、この茅葺きに改められたそうです。オリジナルがこっちなんですね。
でも、どうみても厚すぎる、いや、デカ過ぎるでしょう。なまじ屋根下のデザインが簡素ながらも格好良すぎるので、ちょっとデザイン的にバランス取れてないんじゃないかなぁ・・・と、思います。(笑)
まぁ、それは置いといて。
問題はそこじゃありません。
冒頭でも言ったように、正面から見ても何やらちょっとした違和感が・・・。
DSCF5698.jpg
DSCF5703.jpg
視点を変え、サイドに回り込んでみます。
「おおっ」何これ?
正面からでは朧気であったサイドの出っ張りの正体が。
DSCF5747.jpg
反対側を見ても、同じようなものが付属する。
DSCF5756.jpg
後方は更に複雑な形状に。
DSCF5784.jpg
この庇のようなものは正面を除き一周回っているようですね。しかも後方は昇降の為と思われる階段が付いている。
禅宗様建築に代表されるような所謂「裳階」は通常であれば全周にあるもの。しかも、それは基本的に屋根だけ。
普通に考えると、これは内部の動線が形になったもののようですが、実際どうなんだろうか。
DSCF5735.jpg
簡潔で非常に詳しい解説があったので、一部トレースしてみましょう。

竜禅寺三仏堂(りゅうぜんじさんぶつどう)

時期ーーーー室町時代後期
規模ーーーー間口三間(6.395m)
ーーーーーー奥行四間(7.309m)
北相馬郡に残る中世建築として当初の姿を忠実にとどめており、中世から近世にかけての建築の流れを知る上に貴重な遺構である。
三仏堂は、延長二年(924)年の創建と伝えられ、釈迦・弥陀・弥勒の三仏を祀る。
現在の建物は、建築様式から室町時代後期のものと推測され、さらに内部にあった永禄十二年(1569)年の木札から詳しい年代がわかった。
三間堂の平面であるが、正面に一間外陣を設け、さらに両側面と背面に裳階を付けた構成になっている。組物は出組と平三斗で、木鼻と板蛙股に簡素な彫刻がある。彩色は無い。屋根は茅葺きの寄棟で軒を二重にしている。解体したとき材料のいたる部分に梵字で経文が書かれており、さらに仏壇下の地下に壺が埋められていた。
禅宗様と和様の混合した建築様式にくわえ、特異な平面形式はこの建物をほかに類いのないものとしている。
取手市教育委員会


ふむふむ・・概要は分かった。
分かったんですがね・・・。
加えて、取手市発行のPDFパンフレットがありましたので、見てみますと・・・解体は昭和60年の一月から61年の10月まで行われていたということです。親切にも修理・解体前の図面も載せていただいているようで、非常に分かりやすくなっております。
screenshot_3092.jpg
screenshot_3093.jpg
で、率直な印象なんですが、基本的な構造、つまり正面三間・奥行四間というのは変わらないようなんですが、外観的印象が同じ建物?っていうぐらい違います。
解体・修理にあたり「創建当時に戻した」ということなのですが、前回の「金蓮寺弥陀堂」同様、こうなると、もうよくわからない。ただでさえ日本唯一の平面形式をもつ寺院建築という冠付きなのですから。・・・しかも案内板に「当初の姿を忠実にとどめており・・」との一文があるのですが、どの時代かの棟梁は、とどめるどころか、大きく改変してしまったのでしょうね。(笑)
ryuu.jpg
そうした意味から無理矢理疑いの目で見ると・・・(笑)
写真などで見た初見において、始めこの部分は参拝の動線のために確保されてる部分かと思ったのですが、実際見ると細すぎて全然無理。しかも角度が急すぎて危ない。これはやっぱり関係者の非常通路みたいなものなのでしょう。
でも、裏の正面にも階段が有り、反対側と合わせてこの狭い範囲に降りづらい階段が三カ所もあるのはなぜ?しかも中央に集まるように。もしかしたら、デザイン的な理由も大きくあるのかもしれませんね。
ちょっとよくわからないんですが、実に面白い。
screenshot_3096.jpg
日本で唯一の平面形式ということで平面をCGにしてみました。不可動面のみ存在させ、襖など可動面は外してあります。(構造上半面埋まりますが無視・笑)
柱の位置と閉じられた面に注目すると、意外にも開放的な建物であるということがわかります。
この平面形式の問題はブルーの部分。デザイン上にもキモとなる部分ですが、ここは当然ながら不可動面です。逆にここが動くようだと何となく疑問が浮かびます。そんならなんで全周張り出さなかったかと。後ろの緊急非常口?(笑)の部分一体は殆ど可動する面が無いので、その辺にこの建築のポイントがあるかもしれないです。
しかし、どうやら修理前はこのブルーの部分は可動面となっていたようです。
仮定の話になりますが、ここ北茨城で唯一残存する重要文化財の中世建築として、当時はかなりの人出があったのではないでしょうか。図面を見ると、オリジナルから改変されたと思われる部分(増築?)は人の流れを意識してされたものではないかと思うのです。
ryuu3.jpg
DSCF5769.jpg
外見的なデザインの話に戻しますが、通常に見られる禅宗様建築とは一風変わった面白いデザインです。
裳階下がこれだけ大きいにも拘わらずシャープな感じを受けるのは、やはり正面とサイドの一部にデザイン上の段差を設けることで、そうした大きさを感じさせないデザイン力があるのかと思います。
・・・ただ、重い印象を受ける屋根のデザインは好きでは無い。(笑)

そんなわけでして、改変のことを知ってからCGの製作を進めていながらも、モチベーションがあがらず、このザマです。
今回、更に残念なことに、中を見ることができませんでしたので(通常非公開)目視で確認できたより詳しい内部などのレポートが無く、CGなどにも反映でした。こうした超改変の裏には確信的な理由があると思いますので、それを含めいつかの機会に見に行きたいと思います。



リベンジ成功!? 金蓮寺 弥陀堂ふたたび。

10 23, 2016
金蓮寺tobira
建物記ファイル№0064
金蓮寺弥陀堂
Konrenji-Midadou

さて、
前回お伝えした「日本唯一」はひとまず置いておいて、秋旅行に時間を戻します。
今回の秋旅行は、三重からから始まり、奈良、京都、滋賀、愛知。最後に静岡県の浜松まで回ってきたのですが、唯一、再訪という形で愛知県にある国宝、金蓮寺弥陀堂を訪れました。
まっ、前回2015年12月の初拝観のときには・・・
screenshot_2496.jpg
こんなこんな感じで、屋根の修復真っ只中。
これを見にいくのを目的としていたわけで、このときはさすがにショックでした。(笑)
と、いうわけで、今回はとりあえず大丈夫。
DSCF5137.jpg
覆屋は外され、まだ真新しい屋根がお目見えした金蓮寺弥陀堂です。
同じような位置から撮ってるんですけど、環境的にも何か印象が違います。
金蓮寺弥陀堂の正確な創建は不明ながら、源頼朝が三河国守護の安達盛長に命じて建立させた三河七御堂の一つと伝えられ唯一現存するもの。つまり、こういったお堂が七棟はあったってことだ。
一間四面堂の流れを汲む鎌倉時代の建築で、県下では最古の木造建築物。国宝指定は昭和30年。

一間四面堂=弥陀堂?素朴な疑問
のっけからで申し訳ないんですが、全景を詳しく見る前に、まず、ひっかかる部分が。
金蓮寺弥陀堂の読み方は、こんれんじ・みだどう。「阿」弥陀堂「あみだどう」じゃないんですけど、これって単純に呼び方の違いなんでしょうか?ここ以外になかなか「弥陀堂」って聞かないんですが、有名どころで、どこかにありましたっけ?
調べると、一間四面の場合、阿弥陀堂ではなく、弥陀堂というらしいのですが、あまり聞いたことがありません。
「一間四面堂ってなんだろう?」
ここでは、一間四面堂がわかりづらい方のために、ちょっとCGにしてみます。正直、自分も確信はないので、間違ってた場合、詳しい方教えて頂けますか?(笑)
screenshot_3060.jpg
まず、一間四面堂といわれ、普通に考えたらこの形です。一間=いっけん。これは、柱の間のこと。柱の間の面がひとつ。長さは時代毎で微妙に違いますが、現代ではおおよそ1.8mとして扱われます。一間四面堂というのは、基本的にはかなり単純な構造です。したがって、耐久性や強度の問題から大規模な建物を建てるためには、柱を自体を太くする必要があるなど、なかなかむずかしくなります。
screenshot_3061.jpg
上の話に準ずると、言うまでもなく、この形は、三間四面堂。
金蓮寺弥陀堂の説明を受けると、必ず一間四面堂という言葉が出てくるのですが、金蓮寺弥陀堂の場合は、見た目にも上のような感じです。
では、なぜこの形式が一間四面堂になるのでしょうか?
screenshot_3062.jpg
阿弥陀堂に限らず、大概のお堂には内陣というものが存在します。宗教やお堂の形態などにより無いものもありますが、考え方としては、本尊を祀るための「より神聖な場所」としての区切りと考えれば良いのではないでしょうか。
上のCGのような内陣を持つ場合、内陣の柱は四天柱。つまり、これが一間四面堂ということになります。
内陣の柱の数が呼び方に拘わってくるようですね。つまり、建物そのものが三間だろうが、五間だろうが、関係なく、問題は内陣。この場合に一間四面堂=弥陀堂という呼び名になるようです。
screenshot_3077.jpg
では、金蓮寺弥陀堂の場合はどうでしょうか?頂いたパンフレットに平面図がありましたので、CGを起こしてみます。
金蓮寺の場合、内陣の特徴として、内陣の柱及び須弥壇がCGのように後ろ側にセットバックされています。
screenshot_3078.jpg
最大の理由は、お堂の内部空間を最大限に生かせること。
金蓮寺弥陀堂はそれ程大きくないお堂なので、おそらくそういった必要性があったのだろうと考えられます。
また、手前の柱二本が無くなることにより圧迫感は消え、本尊を視界に捉えやすくなります。地元の信仰を集める大切な場所ということと、のちに「饗庭(あいば)のお不動さん」と呼ばれる親しみやすさが相乗した珍しい形式なのではないでしょうか。
話しを一間四面堂に戻しますが、こうなると金蓮寺弥陀堂の場合よくわからなくなりますね。(笑)
結論的には、柱が省略されているというだけで、形式は一間四面堂ということでいいのではないでしょうか。
DSCF5151.jpg
というわけで、外観にいきましょう。
それにしても、結構フリーな環境で見せて頂けるものだ・・・(笑)。
国宝というと、大概柵などがあって容易に近づけないようになっているのだが、ここはそういったものがない。
観光客も殆ど居ないし、このお堂が国宝であるということさえ知らない人がたくさんいるかもしれない。ちょっと防犯的に心配になってしまう。
改めて外観を見ると、まず、小さい。
建てられたのは鎌倉時代、だけど船肘木や蔀戸(しとみど)など平安風の建築。
よけいなものは一切無いシンプルそのもの。まさに、シンプル・テンプル。
sugaru2.jpg
sugaru.jpg
屋根の葺き替えが終わったばかりなので、真新しい感じです。
縋破風(すがる破風)で屋根が回されています。手前の垂木は奧側と数が違う疎垂木。よりシンプル。
・・・と、ここで外観についていろいろ話したいと思ったんですが、パンフレットにある一枚の写真が気になります。
DSC03553.jpg
ちょっと、キャプションをトレースしてみます。

解体修理以前の弥陀堂
昭和28.29年に行われた解体修理によって、檜皮葺に改められ、東側の孫庇に小部屋が追加された


と、あります。
この写真がどういった状況の写真かわからないのですが、まず、外観が大幅に違います。
いや、違いすぎるというレベルでしょう。(笑)
屋根の瓦葺き→板葺きの変更は国宝でも結構ありますが、写真の正面は板戸じゃないでしょうか。それを蔀戸に変更したと。

それ以外にも、細かい部分はわからないのですが、かなり変更されている印象です。また、サラッと「小部屋が追加された」とありますが、これはどういうことでしょう。
DSCF5138.jpg
金蓮寺弥陀堂は、大正9年に特別保護建造物指定を受け、国宝指定は昭和30年。つまり、28.29年の修理が終わった時期で国宝に指定されたのではないかと思われます。でも、オリジナル性を保つという観点からも、写真などの確固たる資料が無い限りここまでの改変は普通行わない(行えない)と思うのですが、どうなんでしょうか。
「本当はこういう姿だったんだよ」という想像の範疇からの具現化だと、それはそれで大きな問題でしょう。
現在のように文化財に対する法的整備がなされていない頃の建築(修理)だと思いますので、改築にしても、現在の姿には大きな理由があるのでしょうが、再訪という形で金蓮寺弥陀堂を訪れたにも拘わらず、何だか釈然としないままここを後にしなければなりませんでした。



2016年 申年だからこそ猿橋を渡れ。日本三奇橋「猿橋」は独特で一見の価値あり。新相棒 FUJI X-PRO2は大活躍。

04 05, 2016
さるはしとびら
建物記ファイル№0063
猿橋
Saru-Hashi

さて、
先日もエントリーした山梨県大月市の「猿橋」なんですけれども、早速行って来ました。
自宅からだと高速使って一時間ぐらい。大月インターからも空いてれば15分くらいで着きます。
意外に、というか、かなり近かったです。
この日は曇り予想だったんですけど、そこは「晴男(はれおとこ)」の面目躍如。バッチリ晴れました!
「晴れました!」って、通常の建築の撮影だったら、そこは、「おおっ、やっぱり晴男、頼りになるなぁ」なんて冗談も出たんでしょうけど、ここ猿橋の場合は違います。
「なんで晴れるんだよぉぁ〜!」ってのが、正解です。
まっ、それは後から説明しましょうか。
saruhasi 1
建物記ファイルで橋を扱うのは初めてです。歴史・ビジュアル的にもなかなか面白い橋ですが、いかんせんオリジナルではないので、その点は少し残念です。(当たり前か)
なぜいきなりこの橋を取り上げたかというと、自宅から近くて未見だというのはもちろんですが、以前からかなり興味がありました。そもそも橋好きであるということもありますが、最も興味をそそられるのが、この橋独特のその構造にあります。
橋という建造物は、吊り橋や、トラス、構造上色々な種類に分類されるのですが、この猿橋は刎橋(はねばし)といわれる独特の建築技法により造られています。
刎橋というと、一般的には「跳ね橋」の方を連想するかもしれないのですが、「跳ね橋=船が海路を通過するために跳ね上がる橋」とはまるっきり違います。

というわけで、ザックリとした説明。
場所は、先述した山梨県の大月市、「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」と並び日本三奇橋のひとつといわれますが、錦帯橋と猿橋は必ず入るものの、徳島のかずら橋、愛本刎橋など後は結構バラバラです。「日本三大なんとか」って、おらが村のあそこも入れるベさ的に、結構満場一致ってわけにはいかないんだよな。
もともと甲州街道の宿場としてのこのあたりは、武蔵国や相模から甲州へ入る際の要所とされ、この猿橋もそういう意味では非常に重要な場所でした。その様は、広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも登場します。
DSCF1582.jpg
DSCF1579.jpg
猿橋のサイズはどうなっているのでしょうか。
長さは、30.9m、幅3.3m、高さ31mです。現在の猿橋は、当然ながら再建。
年代で言うと、1851年の絵などを元に、もっとも猿橋らしい猿橋を1984年に復刻したものであるということです。
でも、実のところ猿橋の歴史の詳しいことは殆ど分かってません。設計者はもちろん、その名の由来も諸説あるらしいのです。一般的に知られているのは、猿達がこの渓谷を渡る際に自らの身体を繋ぎ、反対側へ渡ったことにヒントを得たことによるものだということです。
現在は新猿橋が西側にかかり、この猿橋は実質的な役目は無く、観光用になりましたが、昔は猿橋宿という五街道、甲州道中の宿場ですから、結構な人がこの猿橋を利用していたことでしょう。

現地はそれ程の観光名所というわけではないので比較的ゆっくりとみることができます。
入場料の類いはありません。また、駐車場もあり、無料です。橋のすぐ脇の近い場所でおおよそ5台程度。少し離れたところに(歩いて1〜2分)10台程度止めることができます。
screenshot_2867.jpg
では、簡単な猿橋のCGモデルを造ったので、猿橋にみる刎橋構造を確認していきましょう。一応側面図からのみですが、正式な図面から起こしています。ただし、幅のみ桔木の部分に光が回り分かりやすいように少し広げてあります。右側を少し造り込み、構造がわかりやすいように左側は極力基本構造のままです。
現場は意外に木が生い茂っていたりして、季節によっては(特に夏)桔木の構造が殆ど確認できない場合もあるようですが、今の季節は確認できています。
screenshot_2868.jpg
screenshot_2871.jpg
screenshot_2864.jpg
まず、刎橋という構造の概念は、日本建築などの見られるテコの原理の応用です。そう、代表的なのが桔木(はねぎ)です。以前やりましたよね。
screenshot_557.jpg
【桔木の基本的な考え方】
この桔木は、テコの原理により軒を持ち上げます。当時は軒が浅く、雨漏りや雨風の吹きつけで壁が傷むため軒を深くする必要がありました。また、軒が深く取れると、建物自体が威風堂々として見えるため外観的な美徳にも一役買っていたと言えます。
もともと桔木の技術を遡ると、日本建築では平安時代が最古で、その技術はあの法隆寺の夢殿に使われていたようです。
現代では当たり前のように使われている桔木ですが、当時は大変な技術だったのでは無いかと思います。
DSCF1570.jpg
screenshot_2862.jpg
ハイ、あらを探さない。(笑)
まず、一見複雑そうな橋脚の部分。橋脚というのか微妙ですが、渓谷側壁に石垣風コンクリートを打ち、長さが少しづつ違う木材(実際は鉄に木材を貼り付けたもの)を組んでいく。
この斜めに飛び出た桔木ですけど、土台としての一本を除くと2対の計8本で支えています。これはある種形を変えた三手先のようなものでしょうか。非常に合理的な造形美です。
screenshot_2872.jpg
screenshot_2866.jpg
CGでは土中に埋まっている部分も再現してみました。ここまでやるとよくわかるんじゃないでしょうか。
桔木の埋没している部分は一番長いもので約1/3。短いものでは半分以上埋まってます。現在の猿橋、繰り返しますが、欄干や踏み板は木ですが、桔木部材は当然ながら木ではなく、鉄です。それに木板を貼ってます。1851年の復刻と言うことで、現在の猿橋は1986年に造られたようですが、こうしてみると、独特の雰囲気があって、ビジュアル的にも美しい橋です。歌川広重が画に残し、国の名勝になるだけのことはあります。
saruhasi2.jpg
建造物なんかをCG化する多くの意味は、全容が把握できにくかったり、目視で確認できないような分からない部分を分かりやすくするためみたいなところがあるのですが、この猿橋も、はじめは構造的に何かあるのかなと思って(刎橋という以外にも)はりきってCGを造り出したんですけど、現地に行ったら思いの外写真で分かる情報が多くて、改めて仰々しく説明する必要の無いほど一目瞭然でした。あまり秘密にしているような部分もありませんし。(笑)
あんまりCG化する意味はなかったかなぁ。
とはいえ、ひとつだけ。猿橋のビジュアルに大幅に貢献しているこれ。↓
DSCF1540.jpg
この切妻風の小型の屋根。なんだかわかりますか?(わかりますよね・・・。)
これは飾りじゃなく腐食防止のための屋根です。よくみると、結構凝って造ってます。雰囲気ピッタリです。材質は銅板ではないようですけど・・・瓦とかだと尚良いんでしょうけど、メンテナンスが大変なのでちょっと無理ですね。
DSCF1611.jpg
DSCF1633.jpg
DSCF1783.jpg
ところで、
話しは変わるんですけど、猿橋から眺めることが出来る橋で注目すべき土木遺産があった。
DSCF1658.jpg
suiro.jpg
それが、八ツ沢第一号水路橋 何と、重要文化財!!
重要文化財の水路でパッと思い浮かぶのが熊本県の通潤橋。でも未見。それでなくとも現役の水路で実際に水が流れているのを目の当たりにするのは初めてです。また、この外観が渓谷にマッチしてますね。猿橋もそうですけど、ここに来れば一粒で二度美味しい的な貴重な橋(と水路)を見ることができます。見逃さないように。

最後に、以前エントリーした話しを覚えていますでしょうか?
「猿橋を撮影するなら晴れの日に行くな。」「猿橋はカメラマン泣かせの橋」
これは、日本全国の面白い橋を撮影しているスペシャリスト平野 暉雄 さんが言ったのですが、
猿橋の刎橋構造がよくわかる展望台は西側から。そんでもって、橋という構造上、桁が非常に暗く明暗が付きやすい被写体なんです。加えて、渓谷という地形も有り。
今回、天気予報は曇りだったんですが、当日は見事な晴れ(晴男)で、猿橋には午前中に到着したんですが、見事に撮りづらかったです。
で、でですよ、この日は時間もあったので、ここから更に西に行き、山梨県の国宝・清白寺を再訪しました。
2時間ぐらい居たでしょうか。
帰り道なので、もう一度猿橋に寄って確認をしてみました。
直前まで曇ってたんですが、現地に着いたら晴れ。(笑)
結局、最後の最後に少し曇ったのですが、メモリーカードの容量が一杯になり、曇りの猿橋は1〜2枚しか撮影できませんでした。
DSCF1544.jpg
これが、10時頃。露出補正しないと構造部分が写りません。
DSCF1753.jpg
これが、14時頃。西日が丁度当たり構造部分が確認はできますが、それでも明暗が強すぎてあまり写真映えしません。
DSCF1841.jpg
そして、これが同時刻の一瞬曇ったとき。これだとよくわかりますね。
まぁ、すべてのひとがこういう写真を望んではいないでしょうし、わざわざ曇りの日を選んで猿橋に行く人はいないでしょうから、写真が目的の人だけ頭の片隅でも入れて置いて下さい。
X-PRO2の方は終始安定した結果を残してくれました。ピントを外すことは、ほぼ無かったです。(99%的中)
小型・軽量で高性能。バッテリーは、RAW+JPG+終始EVFーアイセンサー無し=313枚撮影でバッテリー1個とゲージ(−1)ぐらいでした。こんなもんかと思いますが、ちょっと弱いような気がします。一応合計で3個持っておりますが、場合によっては全ての出番がありそうです。
screenshot_2870.jpg
というわけで、甲斐の猿橋、思いの外面白かったです。
調べてみると日本には名橋といわれる橋が多く、珍橋、おもしろ橋、まだまだ一杯あります。
今年は申年だし。猿橋、渡ってみると、もしかしたら縁起良く、いいことあるかもしれないです。




プロフィール

Author:Kazz
Welcome to my blog

Kazz zzak(+あい。)へようこそ。
Kazz zzaK(+愛・逢・遇・合・・・ etc)
あい。は、人それぞれ。

英語で i は自分ということ。

Kazz zzak(+i)

色々な「あい。」と自分をプラスして
Kazz zzak+i=「Kazz zzaKi」

「カズ雑記」

身の回りの好きなこと。好きなモノ。
関心のある事。
写真と共に何でも書いていきます。

気に入ったらまた遊びに来てください。

尚、このブログ内全ての文章・写真には著作権があります。販売も行っておりますので
無断で使用・転載する行為を固く禁じます。

コメントは基本的に悪質で無いものは承認する方向です。
ただ、メールで個別に対応することは時間的にも余程のことが無い限りできませんので
コメント通してすることになります。宜しくお願いします。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター