投入堂 最古の実測図発見!その実測図に描かれた新たな『謎。』
01 27, 2013
さて、
投入堂完全解剖編の状況と最近のニュースじみたことをエントリーしたばかりだが、1月25日に興味深いニュースが飛び込んできたので、当ブログとしてもこれをエントリーしないわけにはいかない。
それは、『投入堂最古の実測図が見つかった』という自分にとっては驚愕とも言えるニュースだ。
話によると・・この実測図は明治後期の特別保護建造物(旧国宝)指定前に作製されたもので、「大正の大修理」前の投入堂が現在の外観と一部違うのが見て取れる貴重な資料。であるということだ。
「なにっ、現在の投入堂の外観と一部違う・・・だと!?」
保管されていた場所は東京芸術大学美術館で、その前身である東京美術大学で教えていた大学助教授の方が、投入堂に1903年及び1936年に現地調査に行った際作成した図面を正確に写し取ったものの一部であると考えられる。
・・と、ザックリで申し訳ないが、このような経緯であるようだ。
至極当然のことであるが、投入堂に限らず木造の文化財が何百年も建立当時のままノーメンテナンスで残存するはずが無い。
劣化・損傷具合により定期的に人の手を加える必要がある。それは投入堂とて勿論例外では無い。
こうした劣化・損傷の為修理が行われる際、現在の考え方では「元のままにする。」というのが大前提であり、理想でもある。
しかし、全てにおいてそういうわけにはいかず、何らかの理由によりその考え方が崩される場合がある。
そこで問題になるのが、オリジナルに手を加え改変することに対する必然性、その有無である。これは、簡単に言うとオリジナルを変えてしまうか、そのままか。ということになる。
投入堂も有名な修理では大正4年(1915年※修理報告書では大正5年表記)所謂「投入堂・大正の大修理」といわれる大規模な修理が行われた。
この際、結構な部材が交換・修理されたという。ただ、どこかの部材について改変した(された)という話は聞いたことが無かった。あくまでも現状維持のまま今日に至ったというのが、この大正の大修理であった。
ところが、今回見つかった実測図では現在の投入堂と異なる部分が結構見つかったようだ。
それらについて、なぜそうなったのか、なぜそうしなければならなかったのか、という理由はおそらくわからないままなのだが、そこに必然性があったのか、無かったのかは大きな疑問として未来に残っていく。
現在「国宝」と名の付く建築物を修理の際正当な理由無く改変させてしまったら大問題になる。なぜなら、そこには文化財を保護するという高い意識が有り、それらを守ることの出来る二次・三次的な環境が整っているからだ。そこにある基本的精神は、「プラスマイナス・ゼロ」つまり、何も足さないし、何も引かない。という強い信念でもある。
だが、こうした意識・環境的な整備が過去、その時々に完璧に残っていたかと聞かれると、決してそうとは言い切れないと思う。
まぁ、詳しい事情はどうあれ、こうした貴重な資料が事実を如実に物語っている。
結論として、大正の大修理で投入堂は、何らかの理由により大きく改変した。もしくは、させられた。と言う事実がこれにより我々の目に晒された。ということだろう。
ただ、もうひとつ、少ないがこういう可能性もある。
こうなると、近世投入堂ですらどういったものだったのか、もはやわからない。今回最古の実測図が見つかった時期がオリジナルを何らかの理由で大きく改変したものだとすれば、それを気に入らない高い文化財保護意識をもった大正の先人たちが、大正の大修理の際に「元に戻した」とも考えられる。
いずれにしても、これらの真相は藪の中だ。
『投入堂に設計図はあったか!?』
という話はいずれしたいと思っていたのだが、古い建築の実測図がポンと出てくることは結構あるらしい。例えば、投入堂でいえば、近年になって前述の大正の大修理の際の設計図が個人のお宅で見つかった。
今回の発見は個人的にももの凄い興味があるところなのだが、残念ながらこうしたものを見ることが出来る機会は一般には殆ど無い。

【今回見つかった大正の大修理以前の投入堂実測図(左)と、完全解剖編で使用している修理報告書の実測図(右)】
一応当ブログでは投入堂を自分なりにまじめに研究しているつもりだ。
だからといって許されるわけでは無いが、他のサイトから画像を勝手に持ってくるという行為に罪悪感を抱えながら画像を少しお借りして現在の投入堂との比較をこの画像(のみ)から読み取れる範囲で多少検証してみよう。(問題がある場合は即刻削除します。)
日頃の投入堂完全解剖編の経緯から、投入堂の実測図と長い間にらめっこしている(笑)自分としては、まずこの画像が発表されたときにビックリした。これが仮にアスペクト比を変更していない投入堂の実測図であれば「細すぎる。」と思ったからだ。実際現在完全解剖編で使用している図面と縮尺を照らし合わせても、まるで合わない。
この件についてはオリジナル同士ではないので何とも言えないのだが、第一印象としてはそんな感じがした。
詳しく見てみよう。

【投入堂縁板と柱を接続する梁材(赤)】
既にネットなどのプレスリリースで現在の投入堂との相違点として発表された以外(投入堂の屋根に鳥衾が以前はあったようだが現在は外されている。・・など)では、西側の縁下の南北の梁材の延長だろう。以前は約半分だったようで、これは一目瞭然だ。そして身屋の扠首の角度が異常に狭い。身屋の南側の柱の一部が描かれていない。遮蔽施設が側面図で描かれていないが、これについては単純に描いていないのか、この時に無かったのか、よくわからない。

【現在の投入堂の斜材の組み付け方】
また、プレスリリースでは斜材の角度と工法に相違点が見られるとの記述があったが、図面上の斜材の南側の取り付け位置には然程変化は無いようだ。北側は大幅に違う。
投入堂の斜材は「貫(ぬき)」ではなく、単純に主要柱と噛込ませているだけだ。この工法がどう違うのだろうか?
あと、印象的には完成された屋根・庇の葺き角度・大きさ(厚さ)が大幅に違う。それに伴うせいか、軒の反りが圧倒的に弱いように感じる。

【平成投入堂実測図と完全解剖編 製作中モデル側面】
実測という技術において、当時と現在の差はどのぐらいあるのだろうか。
こと精度という点に関しては、機械なども進歩した現在、当時の技術とはそれなりの差があるはずだ。
見つかった実測図の年代を考えると、今回自分が相違点として感じたことは、そうした実測精度の差から生まれるものでこそあれ、投入堂本体の本当の違いかどうかは今になってはわからない。もしかしたら軒の反りなんかも昔は弱かったのかもしれない。それが修理の際変えられた可能性もゼロでは無い。
今回新たに見つかった古い実測図には多くの謎が含まれている。ただし、今後そうした謎に対しパーフェクトに回答することは残念ながらかなり難しい。
謎多き投入堂に、また新たな謎が生まれた。
こうした謎のベールをまた一枚纏い、この建物は一体どこまで魅力的になるのだろうか。
投入堂完全解剖編の状況と最近のニュースじみたことをエントリーしたばかりだが、1月25日に興味深いニュースが飛び込んできたので、当ブログとしてもこれをエントリーしないわけにはいかない。
それは、『投入堂最古の実測図が見つかった』という自分にとっては驚愕とも言えるニュースだ。
話によると・・この実測図は明治後期の特別保護建造物(旧国宝)指定前に作製されたもので、「大正の大修理」前の投入堂が現在の外観と一部違うのが見て取れる貴重な資料。であるということだ。
「なにっ、現在の投入堂の外観と一部違う・・・だと!?」
保管されていた場所は東京芸術大学美術館で、その前身である東京美術大学で教えていた大学助教授の方が、投入堂に1903年及び1936年に現地調査に行った際作成した図面を正確に写し取ったものの一部であると考えられる。
・・と、ザックリで申し訳ないが、このような経緯であるようだ。
至極当然のことであるが、投入堂に限らず木造の文化財が何百年も建立当時のままノーメンテナンスで残存するはずが無い。
劣化・損傷具合により定期的に人の手を加える必要がある。それは投入堂とて勿論例外では無い。
こうした劣化・損傷の為修理が行われる際、現在の考え方では「元のままにする。」というのが大前提であり、理想でもある。
しかし、全てにおいてそういうわけにはいかず、何らかの理由によりその考え方が崩される場合がある。
そこで問題になるのが、オリジナルに手を加え改変することに対する必然性、その有無である。これは、簡単に言うとオリジナルを変えてしまうか、そのままか。ということになる。
投入堂も有名な修理では大正4年(1915年※修理報告書では大正5年表記)所謂「投入堂・大正の大修理」といわれる大規模な修理が行われた。
この際、結構な部材が交換・修理されたという。ただ、どこかの部材について改変した(された)という話は聞いたことが無かった。あくまでも現状維持のまま今日に至ったというのが、この大正の大修理であった。
ところが、今回見つかった実測図では現在の投入堂と異なる部分が結構見つかったようだ。
それらについて、なぜそうなったのか、なぜそうしなければならなかったのか、という理由はおそらくわからないままなのだが、そこに必然性があったのか、無かったのかは大きな疑問として未来に残っていく。
現在「国宝」と名の付く建築物を修理の際正当な理由無く改変させてしまったら大問題になる。なぜなら、そこには文化財を保護するという高い意識が有り、それらを守ることの出来る二次・三次的な環境が整っているからだ。そこにある基本的精神は、「プラスマイナス・ゼロ」つまり、何も足さないし、何も引かない。という強い信念でもある。
だが、こうした意識・環境的な整備が過去、その時々に完璧に残っていたかと聞かれると、決してそうとは言い切れないと思う。
まぁ、詳しい事情はどうあれ、こうした貴重な資料が事実を如実に物語っている。
結論として、大正の大修理で投入堂は、何らかの理由により大きく改変した。もしくは、させられた。と言う事実がこれにより我々の目に晒された。ということだろう。
ただ、もうひとつ、少ないがこういう可能性もある。
こうなると、近世投入堂ですらどういったものだったのか、もはやわからない。今回最古の実測図が見つかった時期がオリジナルを何らかの理由で大きく改変したものだとすれば、それを気に入らない高い文化財保護意識をもった大正の先人たちが、大正の大修理の際に「元に戻した」とも考えられる。
いずれにしても、これらの真相は藪の中だ。
『投入堂に設計図はあったか!?』
という話はいずれしたいと思っていたのだが、古い建築の実測図がポンと出てくることは結構あるらしい。例えば、投入堂でいえば、近年になって前述の大正の大修理の際の設計図が個人のお宅で見つかった。
今回の発見は個人的にももの凄い興味があるところなのだが、残念ながらこうしたものを見ることが出来る機会は一般には殆ど無い。

【今回見つかった大正の大修理以前の投入堂実測図(左)と、完全解剖編で使用している修理報告書の実測図(右)】
一応当ブログでは投入堂を自分なりにまじめに研究しているつもりだ。
だからといって許されるわけでは無いが、他のサイトから画像を勝手に持ってくるという行為に罪悪感を抱えながら画像を少しお借りして現在の投入堂との比較をこの画像(のみ)から読み取れる範囲で多少検証してみよう。(問題がある場合は即刻削除します。)
日頃の投入堂完全解剖編の経緯から、投入堂の実測図と長い間にらめっこしている(笑)自分としては、まずこの画像が発表されたときにビックリした。これが仮にアスペクト比を変更していない投入堂の実測図であれば「細すぎる。」と思ったからだ。実際現在完全解剖編で使用している図面と縮尺を照らし合わせても、まるで合わない。
この件についてはオリジナル同士ではないので何とも言えないのだが、第一印象としてはそんな感じがした。
詳しく見てみよう。

【投入堂縁板と柱を接続する梁材(赤)】
既にネットなどのプレスリリースで現在の投入堂との相違点として発表された以外(投入堂の屋根に鳥衾が以前はあったようだが現在は外されている。・・など)では、西側の縁下の南北の梁材の延長だろう。以前は約半分だったようで、これは一目瞭然だ。そして身屋の扠首の角度が異常に狭い。身屋の南側の柱の一部が描かれていない。遮蔽施設が側面図で描かれていないが、これについては単純に描いていないのか、この時に無かったのか、よくわからない。

【現在の投入堂の斜材の組み付け方】
また、プレスリリースでは斜材の角度と工法に相違点が見られるとの記述があったが、図面上の斜材の南側の取り付け位置には然程変化は無いようだ。北側は大幅に違う。
投入堂の斜材は「貫(ぬき)」ではなく、単純に主要柱と噛込ませているだけだ。この工法がどう違うのだろうか?
あと、印象的には完成された屋根・庇の葺き角度・大きさ(厚さ)が大幅に違う。それに伴うせいか、軒の反りが圧倒的に弱いように感じる。

【平成投入堂実測図と完全解剖編 製作中モデル側面】
実測という技術において、当時と現在の差はどのぐらいあるのだろうか。
こと精度という点に関しては、機械なども進歩した現在、当時の技術とはそれなりの差があるはずだ。
見つかった実測図の年代を考えると、今回自分が相違点として感じたことは、そうした実測精度の差から生まれるものでこそあれ、投入堂本体の本当の違いかどうかは今になってはわからない。もしかしたら軒の反りなんかも昔は弱かったのかもしれない。それが修理の際変えられた可能性もゼロでは無い。
今回新たに見つかった古い実測図には多くの謎が含まれている。ただし、今後そうした謎に対しパーフェクトに回答することは残念ながらかなり難しい。
謎多き投入堂に、また新たな謎が生まれた。
こうした謎のベールをまた一枚纏い、この建物は一体どこまで魅力的になるのだろうか。