開くか !? 禁断の向こう側。そこは「日本一見ることが難しい国宝」と呼ばれる場所。

10 01, 2012
日本一見ることが難しい国宝扉
・・・長らくお待たせを致しました。(けど、サボってたわけじゃないんですよね・・。笑)
今回はブログ開設2周年記念スペシャル。非常〜に長いです。でも、難しいことは書いてないので簡単に読めます。(笑)
ご用とお急ぎで無い方は・・・では、早速いきましょうか。

さて・・。
突然ですが、皆さんは「日本一見ることが難しい国宝(建築)」って何処だと思いますか?
これは、すべての国宝建築をこの目で見てみたいと思ってる自分みたいな人間には非常に重要な問題です。

「見ることが難しい国宝。」
当たり前と言えば当たり前ですが、国宝建築というのは、その性格上殆どが野外にあり、大きさも巨大なことからどこにあっても非常に目立つ存在です。「見ることを難しく」する方が逆に難しいでしょう。殆どの場合黙っていてもその視界に入ってきます。
これを、あえて「見ることを難しく」人の目にさらさないようにするには、高い壁などで四方を囲う必要があるでしょう。
かといって、元々伽藍などの中心にあり、その外壁により見えない場合や、保護すること自体を目的とし、覆屋に隠された中尊寺金色堂、また、修理などに伴う特殊な例を除き、「見られないため」または、何らかの理由により「見せないため」として壁を高くすることなど、殆どというか、全く意味がありません。
もちろん、高い壁で建築そのものを隠し「見せてあげる」といわんばかりに拝観料をせしめるというなら話は別であるが、景観を含めたオリジナル性を保つと言う意味で不自然すぎますし、そもそも建物と共に周辺の環境さえも国宝の一部と考える日本の国宝建築において、そうすること自体に問題があり、不可能と言えます。
こう考えると国宝建築は、その性格上、現地にさえ行くことができれば寧ろ大部分が「見ることが簡単な国宝」という結論に至るのではないでしょうか。

ところが、中にはそう簡単にいかない国宝も存在します。

そう簡単にいかない・・・つまり、「見ることが難しい国宝」という意味を考えたときには二つのケースが思い浮かびます。
まずひとつめは、投入堂のように、それを見るための道程に問題がある場合。
「日本一危険な国宝」との異名通り、路無き路を行くような行程の末たどり着くような場所に建立している寺院など、数自体は微少だと思いますが、確かに見ることが難しい国宝といえるのではないでしょうか。

そして、「見ることが難しい」という定義を持つ国宝建築にはもうひとつのケースが考えられます。
それが、何らかの理由によりその公開を制限されている国宝です。
この国宝、正確にはさらにふたつのパターンに分かれます。
ひとつは春や秋の観光シーズン、もしくは何年かに一度一般向けに期間限定で特別公開する国宝建築です。
これについては、もう、辛抱強く待ち、タイミングを見計らい拝観するしかありません。
こうした限定公開、特に春や秋に公開される時などは、観光シーズンとも重なり、だいたい短くても一週間程度公開されることが多いようです。中には、何年かに一度、3日限定なんていうのもありますが、こうなると、もう有給休暇を使ってでも何でも見に行くしかありません。地元でも無い限りピンポイントで休みを合わせることがなかなか難しい場合もありますが、チャンスが限られているだけに日頃からこうした公開情報をチャックするマメさが必要でしょう。ちなみに、基本的にこうした期間限定の国宝は、その内部が公開される場合と、外観のみが公開される場合があります。

さて、そして、最後。
正真正銘最も見ることが難しいとされるのが完全非公開の国宝建築です。
前述した、気力や体力があれば何とかなる投入堂などの例や、タイミングや時間はかかるが見ることも不可能では無い限定公開と違い、この完全非公開の国宝を見ることは一般的に極めて難しいといえます。
なんにしろ一般的な公開が見込めないだけに、見る方法も限られます。
その方法として考えられるのは、直接的にその場所(管理・所有者)に働きかけ見せてもらうか、第三者経由の何らかのコネを使い見せてもらうか、拝観という概念を捨て、別の角度(イベント事)からアプローチするか、ぐらいしか方法はないと思います。
screenshot_213.jpg
『日本一見ることが難しい国宝はどこだろう?』
と、いう話をした時、その答えとして、究極的にそれは人により異なると考えざるを得ません。関係者とのパイプが太い方々にとっては例え非公開の国宝とはいえ融通が利く場合もあるだろうし、意外に容易なのかもしれません。但し、それは限られたごく一部の方々でしょう。あくまで「一般的」という断り書きが付いたとき、その答えの幅は限りなく狭まるといえます。
また、何を持って「見た」とするのかも非常に難しいところと言えます。
何故なら、投入堂にしても麓に遥拝所という場所が設けられており、苦労しなくても見られるようになっています。そこに「日本一危険な国宝=(たどりつかなければ)見ることが日本一難しい国宝」という図式は成り立ちません。堂内に入れるのであれば話は別でしょうが、単純に視界に入ったかどうかという点では、修験道を登り、たどり着いたとしても同じ「見た」ものとして変わりはありません。
「そんなんじゃ、見たことにはならんよ。」
確かに人によってはそう考える方もいらっしゃるかもしれません。
そこにあるのは「見た」のか、「見えた」のか。
このあたりの線引きは個人が持つ意識にゆだねられるものであると思います。

「国宝建築は見るものではなく、体感するものである。」
国宝建築と対峙するとき、自分はこれを持論としています。
実態として視界にとらえたことに変わりはありませんが、お寺や神社などの国宝が多い日本では、外観だけではなく、やはり拝観という形でそれらを見るのが理想であると思います。
ですので、自分はこういう場合拝観に伴い「体感」できたかどうかを最重要視します。
建築を体感とは言い得て妙な感じですが、建物を外から見るのと中から見るのではそれこそ天と地ほどの差があります。
建物の中に身を置くことによって得られる木造建築の臭いや色、中にある仏像を拝み、柱を触る(触って良い場合)お寺や神社、塔に登り、五感で感じられたかどうか、それが広い意味での「体感=見た」ことになるのではないかと思っています。個人的な考え方に相違はあるでしょうが、壁の向こう側からチラリとのぞき見るような状況下では個人的にはやはり「見た」とは言いがたい。もちろん、制限の多い国宝建築においてすべて体感できる状況であるかどうかと言うのは疑問ですが、これについては限定公開などのチャンスを最大限利用し、自分なりに限界まで突き詰めることで「見た」ということになると思います。

さて、
長々と日本で一番見ることが難しい国宝。という序説を自分なりに述べてきました。
では、個人的に日本一見ることが難しい国宝とはどこなのか?いきなり結論づけてみたいと思います。
あくまで個人的意見としてという前提でしたが、おそらく自分が声を大にして言わずとも、国宝建築ファンとすれば承知の事実。
「日本一見ることが難しい国宝」と言えば、
京都にある完全非公開国宝建築、それがここ、今回のエントリー

大徳寺 龍光院書院 密庵席(みったんせき・みったんのせき)ではないでしょうか。

密庵扉1
龍光院 書院 密庵席   Ryokouin syoin mitsutan-seki
Kazz日本全国古(いにしえ)の旅


人の趣味において「全制覇」というのは一つのキーワードである。
それはどんなものでもいい。
何かのコレクションでもそうであるし、場所、モノ、何でもいい。すべてを集める、すべての場所を見る、行く、すべてのモノを食べる、でも、何でもいい。
その道を極めたいと思う大概の人が目指すところが「制覇」と言う名の自己満足感、つまり、

「すべて」である。

この「制覇」という言葉が適切かどうかわからないのだが、あえてその言葉を使うのであれば、国宝建築全制覇を目指す自分にとって、この龍光院密庵はとてつもない高い壁になることが容易に想像できるのである。
ryuukouinn2.jpg
龍光院兜門 重要文化財

京都 大徳寺。
この大徳寺にある数多い塔頭の中のひとつに龍光院がある。
そして、今回のエントリー、日本一見ることが難しい国宝として名高い、書院・密庵席(以下密庵に略)はこの龍光院の中にある。

ここ龍光院は筑前福岡藩初代藩主 黒田長政が父・黒田如水(黒田官兵衛と言った方がしっくりくるかも。)を弔うために建立したものだ。この時、現在の龍光院が建立されている場所は隣接する玉林院の空き地であったということだ。天下分け目の関ヶ原の合戦後1606年のことである。
龍光院は国宝・重要文化財を多数持ちながらお世辞にも知名度が高いとは言えない。
それには大きな理由がある。
何故なら、ここ龍光院が一般的にその内部を、「公開している」または、「公開していた」という話はまず聞いたことが無い。おそらく過去に遡っても一度として無いのではなかろうか。
もちろん春・秋などに大徳寺で行われる特別公開などにもその名は無く、現在でも一般的には拝観謝絶を貫き通している。
これこそ、完全非公開である。
言わずもがな、それ故この龍光院の情報は極めて少ない。いいかえれば殆どメディアに取り上げられることも無く、テレビでも見たことが無いこの龍光院はその姿が専門書に少し載っているぐらいで殆どが謎に包まれ知られることの無い塔頭なのである。
ただし、・・誤解の無いように言っておくが、「拝観謝絶」つまり、見学、観光目的のための拝観はしていないということで、龍光院が完全に一般外部との接触を遮断しているかというと、それは大間違いである。
お茶会なども当然開かれているし、その他の各種イベントもある。もちろん密庵自体を研究している方も大勢いる。
従って、入れる方は入れるのだ。そういう意味で正真正銘の完全なる非公開とはいいづらいが、やはり一般的にはその敷居が高いことに変わりは無い。

龍光院。謎に包まれながら、数々の重要文化財、前述の国宝書院密庵席を始め、密庵席の名の由来にもなった日本にひとつしかない密庵感傑の墨跡、日本に・・というか、世界にも数点しかない曜変天目茶碗などの超弩級の国宝茶器を有する。
大徳寺に行くたびに見つめる龍光院の壁。
その向こう側。
そこにはいったい何があるのだろうか・・。

待庵1
・・ところで、密庵席の概略を話す前に、以前当ブログでもお話しした「国宝茶室」というアプローチからまずは切り込んでみよう。いずれ個別にエントリーすると思うのでここでは話の流れ上紹介程度にとどめます。(笑)

国宝建築好きならもうご承知のように日本に国宝の茶室は三席あります。
まず最初の一席は京都 山崎 妙喜庵にある「待庵」だ。(写真上)
この待庵、こうしたものに詳しい方でなくとももしかしたら名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。
究極に無駄を省いた2畳という極小の空間を持って侘び茶を完成させたとされる千利休が造った国内唯一の茶室である。極めて特殊な空間であり貴重な遺構だ。
待庵模型1
まぁ〜・・待庵について自分が話したいことはたくさんある。
だが、今回は密庵がエントリーの主役なので、話す機会は涙をのんで別に譲り、黙ることとするが、非常に面白い取り上げ方をしますので、是非楽しみにしていてください。
利休作の二畳という空間のインパクトは後の弟子たちにも大きな影響を与えました。
ところが一転して、愛弟子古田織部は利休の呪縛から逃れるように独自の作為をもって茶を昇華させ、全く新しい茶を開拓します。それが時代を経て、密庵にたどり着いたのかもしれません。
如庵1
二席目が愛知県犬山市有楽園内にある「如庵」だ。
この如庵はあの信長の実弟である織田有楽が造ったものだとされる。
この如庵にも色々面白い話がある。
元々は京都建仁寺にあったものであるらしいのだが、国宝でありながら結構な移築が行われており、合計三回ほどあちこち移動したらしく、最終的に現在のところに落ち着いたようだ。

そして、最後に登場が龍光院密庵である。
繰り返すが、この密庵についてウェブ上での情報はかなり少ない。
茶室という建築性格上専門的になるだろうし、一般公開が全くないので資料らしい資料が殆ど無い。
全く無いわけでは無いが、あっても難しく、読解するのにかなり時間がかかりそうだ。
だからといって、研究者著作の書籍により大方掘り下げられた密庵を今一度ここで掘り下げたところで限界があるし、意味も無く、だいいち使命が違う。
過去のエントリーを見てもわかるのだが、当ブログでこうしたものをエントリーすると結構込み入った話になるので長くなりすぎるし、そういった意味ではあまり深すぎる掘り下げは正直行いたくない。(笑)趣旨としては、「大体こんなとこだよ。」というのが理想なのですが、未見の国宝建築を扱うので、ところによっては書籍などから得た知識の受け売りになることを了承いただきたい。
本来なら密庵を見てきた初見などを詳しく記述していきたいのだが、それは将来の楽しみとするところにして、今回は大まかなところをエントリーするとして話を進めていきましょう。

というわけで・・・・。
「国宝 龍光院 書院 密庵席とはいかなるところなのか?」
早速いってみましょう。
screenshot_250.jpg
・・・・と、その前にすいません。

密庵の間取りなどは後でゆっくり説明するとして・・・
いきなりですが、先行して龍光院書院密庵北西側、本床の前に来ました。

正面に掛けてある掛け軸の中の人物。
見覚えがないでしょうか?
密庵の概略を説明するには多少、この掛け軸の人物について触れなければならないでしょう。
この密庵を造ったとされる「小堀遠州」です。
あっ、断っておきますが、実際の密庵にもこの遠州の掛け軸が掛かっているわけではないですからね。念のため。(笑)

おそらく茶道を嗜む人の中で小堀遠州を知らない人はいないでしょう。
優れた茶人であることはもちろん、建築、造園、陶芸に至るまでどのジャンルにおいても非凡なる才能を発揮した時代のマルチ・アーティストです。
とりわけ茶人としての小堀遠州は千利休、古田織部に次ぐ人物とされ、その独創性から非常に評価が高く、茶道においても多大なる功績を残した人物です。
二畳茶室に黒楽茶碗、シンプルの極地に自分の美意識と茶道哲学を追った千利休と、師匠の意向をくみつつ、利休死後は茶道に別次元をもたらした古田織部。
この偉大な二人の茶人を師匠に持つのが小堀遠州です。
中でも茶道において遠州と言えば「綺麗さび」である。
茶道そのものの流れとしては、あくまで「先人在って」のいいとこ取りの様な感じだが、この「綺麗さび」をもって遠州は茶道における時代の寵児になった。佗茶を完成させた利休の茶が彼自身の精神そのものを具現化したように、師匠古田織部の流れを組む遠州流茶道もまた彼自身の精神を具現化したものであることはいうまでもない。そこには、綺麗さびの言葉通り、当時の流行色豊かな茶器や中国製の茶器を使用するなど、見た目もよく言えば流麗かつ先進的、悪く言えば俗っぽい(私の感想です)但し、その根には脈々と受け継がれる伝統と格式が大きく見える遠州の茶の道。いわゆる「へうげもの」と呼ばれる師匠の古田織部のようなアクの強い強烈なまでの個性はなりを潜めているようだが、遠州はそうした先代からの流れを巧みに取り込みながら書院という場を持って見事に茶道を時代に融合させ「綺麗さび」を世に送り出した功績者でもある。
なお、余談だが、この「綺麗さび」という言葉は近年の造語です。

小堀遠州といえば、芸術や建築などに多彩な才能をもつ人物として有名であることは先に述べたが、ここ龍光院と遠州の関わりは深く、もともと同敷地内にあった孤篷庵の茶室 忘筌(ぼうせん)を手がけている。小堀遠州作晩年の傑作茶室としてはこちらのほうが圧倒的に有名である。
この密庵は正確には「遠州好み」の茶室とされ、制作年代と共に作者も不明である。というのが正しい。
密庵=遠州作といわれる最もたる理由は、時を同じくして同時期に京都三条の自邸に作室した茶室にうり二つと言われた諸々の伏線から、というのが真相の大筋を担う理由であるということだ。
絵画のタッチのように短期間に作風が変わり、素人目にはとても同一人物が書いたとは思えない鑑定に類似するように、こうした建築には、どうしたってその意匠や「この人で無ければこうはしないだろう。」という個性が宿るものだ。
密庵にしても正確な記録が無い以上、何があっても小堀遠州作という決定的な証拠や結論には至らないが、見る人がみれば限りなく近い「遠州作」ということになるのかもしれない。
自分は残念ながらそういう意味では、その端っこにも到達していないが、この際、遠州作というのは置いておいても、是非この素晴らしい茶室を拝見したいものだ。

参考までに茶匠としての遠州の好みは、
●広さが四畳台目、
●にじり口から手前座が見える
●炉・構えは台目切り
●中柱は赤松の皮付き
●床柱はナグリかしゃれ木
●壁面 土壁
 など。
ということだ。密庵はかなりの項目でこれらを含み、これが遠州好みと言われる所以である。

さて、ここで密庵内部の詳細を確認する前に、主な事柄から密庵を取り巻く時系列を大雑把ではありますが、まとめてみることにしましょう。
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●まず、冒頭部で記したとおり、ここ龍光院は黒田長政がその父である黒田如水の菩提を弔うために建てた寺で、慶長13年(1608年)に落成した。
●初代住職は千利休や今井宗久らとも親交があった円鑑國師(えんかんこくし)。
●円鑑國師亡き後、境の茶人として有名な津田宗及の子供である江月宗玩(こうげつそうあん)が跡を継ぐ。
●国宝となった密庵が最初に茶会記に登場したのは寛永18年(1641年)。
●この茶会記を書いたのは招かれた客のひとり、松屋久重(まつやひさしげ)なる人物。
●タイトルは「松屋会記」(まつやかいき)。
●この松屋会記は当時の茶会を知る上で重要な史料であり、密庵を語る上で無くてはならないもので、この書に密庵の初期の間取りが記載されている。
●この初期の間取りについては後に記すとして、肝心の密庵自体の制作年代だが、・・これは明らかにはなっていない。が、1630年代半ばではないかというのが定説となっている。加えて、現在の密庵の姿になったのは1649年頃ではないかと考えられている。
●明治5年(1872年)に客殿及び庫裏などが取り壊され、おおよそ現在の龍光院の姿になったということだ。


・・・というわけで、長い長い前置きを経て、ここまできました。ここからいよいよCGを使用して密庵の具体的な内容に入っていきます。

では、この密庵がどのような場所であるのか?平面図からその間取りを起こしてみよう。
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まず、平面図から密庵をCGにし、俯瞰から見てみましょう。(CG写真上が北)

基本的に密庵の間取りは四畳半台目というサイズの茶室(茶座敷)です。
わかりにくいかもしれませんが、この「台目」(だいめ)というのは簡単に言うと1畳の3/4ほどの大きさの畳のサイズのことです。よく四畳半茶室という言葉を聞きますが、この四畳半台目と違いますので注意が必要です。
密庵の場合、この台目は北東側に位置し、ここに手前(茶を点てる)を点てる亭主が座る。点前座といわれる部分です。

さて・・・
こう見ると書院造りの要素が整いながら茶室である。というのが密庵の最大の特徴であり、それは異例なる造りであるといえます。
床×2(本床・密庵床)付書院部(天袋・違い棚・地袋)があり、この存在だけを見ると書院として成り立つが、手前座と炉があること自体が茶室としては異例なことで、完全なる特別仕様。茶室としては極めて珍しい部類に入りそうだ。
また、密庵の間取り自体で目に付くのは床の間が二間あることだ。これも密庵の特徴と言える。
国宝建築には唯一無二、特異な間取りや構築部材から制作時代の唯一のモノであるという肩書きなどを有し、国宝として珍重されるものもあるが(もちろんそれだけではないが・笑)、こうしてみると、密庵にもそれは当てはまるのではないかと思う。
密庵の国宝指定は昭和36年。勘違いしやすいが、密庵席はあくまで龍光院書院の一部であることだ。実際国宝に指定されているのはこの密庵席を含めた書院全部であり、とくに密庵席だけが国宝の対称となっているわけではないのである。
また、こう見えて密庵には構造上の謎も多い。
残念ながらここではその部分に焦点を当てることはしないが、現在の密庵を含め、龍光院書院は国宝といえどオリジナルをとどめてはいないので、ところどころ史料との相違点が存在する。
ただ、その点については、いかに「日本一見ることが難しい国宝」といえど、研究資料は豊富だ。
一般的には敷居が高いが、関係者を全く寄せ付けないほど龍光院の間口は狭くない。鋭い観察眼を持った研究者が密庵を研究し尽くし、図面などもほぼ完璧にそろっている。
加えて、密庵は昭和41年に半解体修理が行われており、その際できる限りの情報が集められた。構造的な謎も含め、何らかの条件が整えばそうした謎が解明するのもそう遠くはないだろう。

そうした恩恵にあずかり、ここではその図面に基づき、参考までに書院全部の俯瞰CGを載せてみよう。(庭・路地の一部を含む)
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写真右側(東側)は切れているわけでなく、他の部屋が接続されていて継続するが、図面から見ると大体こんな感じ。
時間が許されるなら、ここから詳細な書院のCGを組みたいところなのだが、ちょっと時間が無くて申し訳ない。
書院自体が龍光院のどのくらいを占めるのかちょっとわからなかったが、大徳寺内の別の塔頭の大きさと比較しても龍光院は飛び抜けて大きいわけでは無い。書院というと、黒書院や白書院といった大きいイメージがあったが、龍光院書院は全体を見てもそれほど大きくはないようだ。
真俯瞰では無いので殆ど意味は無いが参考までにスケールを入れてみた。(スケール単位はmで画面のスケールは3mです。)
こう見ると、現在の密庵へ直接出入りできる部屋は一の間のみ。(図面上だと。)但し、密庵と一の間の共通部分である南側の4枚の襖は茶席などで密庵が使われる場合の出入り口にはなっていない。また、三の間は密庵と隣接しているが、西側が床と壁になっており、密庵への直接的な出入りは出来ないような間取りになっている。

初期密庵と、現在の密庵。
さて、密庵を語る上で最も外せないのが造られた当時の密庵と現在の密庵の違いである。
表題にもあるように、ごく初期の密庵と現在の密庵では似ているようで大きく違う点が二点存在する。
本文の構成上二点目は後でお話しするが、ここでは最初の相違点について触れてみよう。
まず、書院における密庵の位置が大きく違う。
これはポイント的に非常に重要なことだ。
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写真上が現在の書院における密庵の位置。下が、初期の密庵の間取り(イメージ)
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「松屋会記」によると・・密庵は元々は半独立した茶室だったらしい。完全な離れの茶室では無く、書院の一部であったということだ。また、北側の4枚の襖が書院と接続しており、他の3辺は庭に面していたということだ。
普通に考えると逆の凸字型の様な配置で密庵は書院に置かれていたことになる。
(東面については庭に面している記載は無いが、書院自体の図面や記録から考察すると東面も庭に面して可能性が高いということだ。)
ここで、初期の密庵のイメージを造ってみた。
書院の他部屋の位置の記録が見つけられなかったため柱などの間隔が機械的で申し訳ないが、密庵自体の初期イメージとしては(例えば)こんな感じだろうか。
こう見るとこちらの方が茶室としてしっくりくる。
諸説在るようだが、密庵が現在の書院の一部に取り込まれたのは昭堂を造立した慶安二年前後と考えられている。このとき、何らかの理由により密庵は残され、逆にこの密庵を取り込んだ形で書院が造立されたという。密庵自体も多少の変化は余儀なくされたようだが、これ以後ほぼ現在の形を保たれていると考えられているようだ。
ちなみに初期の密庵と現在の密庵は部材の変更や細部に違いが見られるが、間取りの違いはほぼ無いと言って良い。

ところで、書院における密庵の「位置」に関しては上記の通りだが、方角に関しては一考の余地がある。
この場合の方角、つまりは「採光」に関する考察だ。

この密庵が造られたとされる時代、織部から遠州あたりの茶匠が茶室を手がけていた頃は徐々に明るい茶室が好まれる傾向にあった。初期密庵も実はその三面が庭に面していたといわれており(一面部は壁だが)採光に関しては採光・・いや、最高の状態で茶を楽しむことが出来たはずである。
しかしながら、現在の密庵は採光に関しては決して良いとは言えない位置にある。採光面は二面しか無く、しかも西面と北面である。軒の突き出し量と廊下の幅、植栽、壁など諸々の要素を考えたら悪くなることはあっても決して良くないのでは無いかと思う。事実、近年の資料には
「採光が良くないために北東側の違い棚の細部がよくわからない。」的な総括が多くされている。

話は変わるが、初期における茶室はその殆どが北向きに設定されていた。(南採光)
これはなぜだろうか?訳がある。
諸説在るが、一番の理由は明るすぎる茶室は茶道具を「ちゃち」に見せてしまうからという単純な理由らしい。
これについては本当かどうかわからなく、例えそうであっても一概にそれがすべてとは思わないが、確かに明るすぎると道具の類いのアラが目立つ。暗すぎるのは良くないが、適度に暗い方が雰囲気があったのは確かだろう。
現代の住宅においても光の取り入れ方は重要なポイントのひとつだが、茶室において採光を多窓化により具体的にデザインすることは実はかなり時間がたってからのことなのである。
そう思うと、密庵が現在の書院に取り込まれたとき、なぜあの位置に置かれたのか?残念ながら正確な理由は見つかっていない。
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また、初期の密庵と現在の密庵の水屋の位置も違う。水屋とは茶席を準備するために設けられた準備室だと思ってもらえれば良い。当然隣接した方が勝手は良いだろう。
現在では上のように北側の障子を開け、三の間の北側のを抜けなければならなく、少し離れている。以前は下の写真のように、すぐ北側に隣接していたらしい。
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この水屋の隣接には松屋会記に記録があり、初期密庵と現在の密庵の大きな相違点の二点目としてここでは触れずに密庵の中に入ってから説明しよう。
では、改めて、密庵の中に入ってみましょう。
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まず、密庵への正式なアプローチは外からです。
西側の二枚障子の外は廊下になっており、そのまま縁が巡られていますが、北側へは縁を遮断するように板戸があり、この開閉で動線が確保されます。
目に付くのは途中で不自然に切断されたような高欄なのですが、この高欄はもちろん続いていたのもので、江戸時代の中期、寛政(1789〜1801年)頃に昇降目的で切られたと言われています。
思うに、こうしたものは例え切ったとしても、その部分を適切な処理によりわからないようにするものが普通だと考えるが、密庵の場合写真で見る限り、高欄部分を「ザン!」と切断しており、いかにも、という感じがします。
何とかならないものか・・。
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沓脱石(くつぬぎいし)の置かれた場所から席入りします。
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二枚障子を開け、中に入ります。
・・そういえば、前回のエントリー予告扉のCG写真は、演出上襖の真ん中から密庵内部を覗いているように造ってありますが、本物の密庵の入り口は二枚障子を開けて席入りするのでああいう開き方はしません。念のため。(笑)
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現在の密庵の正式な入り口は南西にある襖から入ることになる。(南側には4枚の襖があり、この状態では中が見えないため外してあります。)
通常茶室の入り口というと「にじり口」が思い出される。つまり、独立した茶室の場合は身分の上下関係なく、頭を下げ、天下人ですら刀を持ち込めずひたすら茶に集中する。これが利休時代の茶だった。
一方でこうした茶室(茶座敷)の場合にじり口は設けられない。(設けられる場合もあります。)
貴人口(きにんぐち)という立ったまま入れるこちら側から入ることになる。
この貴人口にもこの時代は色々こうるさい仕様(笑)があって、2枚の腰高障子でなければならないという決まりがあるようだ。・・となると、密庵初期に見られる南側は四枚障子のため貴人口にはならないのか・・。
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ようやく密庵の中に入れました・・。(笑)
まずはグルリと見渡してみる・・。
とはいえ、四畳半台目なのであっという間です。
残念ながら時間と手間の関係でCGでは襖絵を再現しておりませんが、床や框(かまち)、壁の一部など見事な襖絵が描かれています。
これらの襖絵は、『大徳禅寺世譜』によると狩野探幽・松花堂昭乗(しょうかどう・しょうじょう)によって描かれたものであることがわかっている。どの部分がどちらであるかという詳細な記録は無い。
screenshot_233.jpg
正面北側。
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逆に付書院側の全体はこのような感じです。
これまたCGでは再現していないが、密庵の天井は竿縁天井、高さは約2.3mあり、材質は杉である。
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なお、南側(写真左)は現在一の間と接続する四枚の襖になっているが、初期密庵においてこの西面と南面は縁続きで矩折り(かねおり)になっていたので、おそらくは写真のように同じ意匠のこの四枚の障子があったのではないかと思われている。この障子は基本的な意匠は同じだが、サイズが違うため格子の数が微妙に違う。

さて、中に入り全体的に見渡すと、パッと目に飛び込んでくるものがある。
これが、密庵の名前の由来にもなった最大の特徴でもある「密庵床」だ。
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国宝という冠と、その名として燦然と?輝く密庵の「密庵床」だが、その謂われはご存じの通り
中国南宋時代の禅僧 密庵感傑(みったんかんけつ)の墨蹟を掛けるための床であることからきている。
この密庵床に掛けられるべき密庵感傑の墨蹟は、国宝にして日本でも唯一現存する大変貴重なものだ。

時代は床に掛ける軸を「画」から「墨蹟」へと変化させていた。特に利休は圓悟や密庵の墨蹟にご熱心で、こうした流れを造ったのも利休であるとされる。利休が好めば、皆も好む。利休を始めとする多くの茶人がこの墨蹟に親しんでいた。利休はこの墨蹟の表装まで手がけており、添状と共に附けたり国宝として指定され、現在龍光院が所蔵している。さらに、この密庵感傑の墨蹟は、長年の痛みに伴いのちに遠州もこの手直しに携わっている。
密庵感傑の本物の墨蹟がどういうものか、自分は写真ですらわからなかったのだが、この墨蹟を取り巻く環境・人物などを見ると、そうそうたる顔ぶれである。ついには専用の床までも造らせたこの密庵感傑の墨蹟。
しかし・・日本一見ることが難しいと言われる国宝(建築)の床にさえ掛かることも希な国宝か・・・。こちらは本当に幻の国宝と言えるかもしれない。(笑)

ところで、・・この密庵感傑の墨蹟にははこういう話がある。

或る時、千利休はとある場所でこの密庵感傑の墨蹟を見つけ、大金を投じてこの墨蹟を購入したそうだ。
喜び勇んだ利休は早速茶席にてこの墨蹟を床に飾った。
ところが、折角大枚はたいて買った墨蹟に誰しもが見向きもしない。
この茶会がお開きになると、この墨蹟が「偽物ではないか?」という指摘を受ける。
驚いた利休が問い合わせよくよく調べるとこの墨蹟は真っ赤な「偽物」であった。
頭にきた利休はこの墨蹟を直ぐさま破り捨てた。


・・と言う話だ。
真相はともあれ、これは、偽物を掴まされたという自分への怒りと、「あの利休が偽物を掴まされたらしいぞ。」という変な噂が立つことを恐れた「利休自身のプライドの現れ」の有名な逸話として語られることが多い。
確かに、茶聖ともいわれる利休の目がその真贋を見抜けなかったとすると弟子の手前示しがつかないだろう。
けれど、利休というとイメージ的にミスなどしない完全無欠のイメージがつきまとうが、捜し求めていた密庵の墨蹟が見つかったことで一時的に頭に血が上り鑑定眼が狂ったのか、この話は利休の人間的な一面が垣間見える話として非常に面白いです。

話を密庵床に戻すと、密庵感傑の墨蹟専用の床である(筈の)密庵床であるが、松屋会記によると元々この密庵床は付書院として使用されており、密庵の墨蹟はここには掛けられていなかったようだ。実際は逆側の本床に掛けられており、これは江月宗玩の時代もそうであったという。
では、何で現在の墨蹟は本床から外れこちらに掛けられているかというと・・・。
諸説あるらしいのですが、何らかの理由で現在の密庵床が板床に改造された際、本床よりもこちらのほうが幅にゆとりがあるためにこちらに掛ける習慣が生まれ、現在に至るということらしいのです。
ちなみに、この茶室を密庵(席)と呼ぶようになったのはかなり新しいらしく、江戸時代末の史料にもその名は無かったらしいです。
screenshot_201.jpg
さて、ここで密庵に入る前に言っていた初期の密庵と現在の密庵のもうひとつの変更点について見てみよう。
松屋会記によると初期の密庵と現在の密庵の間取りは殆ど変化が無い。ただ、唯一北側の壁の処理が大きく違う。これは何度かの改築の際に何らかの理由で変更になったものだと思うが、まず、初期の密庵の北東側の壁はこうなっていた。
床柱の右側が火灯口(かとうぐち)、点前座側が方立口(ほうだてぐち)として壁が空いており、それぞれ給仕口、茶道口として使用されていたであろうことが図面からわかる。(※高さの記述は無いので想像です。)
これが現在の書院に取り込まれる際に4枚障子に変更されたということだ。
screenshot_238.jpg
こちらが現在の密庵の北側の障子。見た目かなり印象が違う。
screenshot_255.jpg
CGの良いところは、現実では絶対にあり得ない角度からの視点を得ることができるところだ。(そのクオリティは別として。笑)
密庵床の北側の壁を取っ払って手前座の奥から亭主の目線で密庵を見てみよう。
左の釣棚は雲雀棚形式(ひばりがたけいしき)と呼ばれる棚で、下の棚は横木に預け、雛束を立て上棚を支え、天井から寒竹で釣っている。手前座の天井は他の天井より一段低くなっており、(落天井)床の天井と相まって草庵風の色を残している。
棚の材質は桐で、下吹き抜けは畳から2.2尺で抜かれています。
尚、この取っ払った壁は密庵が書院に取り込まれる前は障子だった可能性があるようだ。
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付書院部分に目を向けてみよう。
この書院部分は、天袋・違い棚・地袋で部材構成される。CGでは再現できていないが、この天袋と地袋には画があり、その画は遠州の親友である松花堂昭乗によって描かれたものであることがわかっている。
一方、書院床の方であるが、本来はこちらに密庵感傑の墨蹟が掛けられていたらしい。こちらが本床。
screenshot_240.jpg
そして、付書院と言えば棚だ。
密庵席には違い棚も存在する。ちなみにこの違い棚は「龍光院棚」(ホントか?)と呼ばれているらしい。
そういう風に言われているのかどうかはこの際置いておき、写真や図面などではハッキリとわからないのだが、手元の資料によると、この棚も装飾の点で金などを使っており、その優雅さも天下の三名棚(桂棚・霞棚・醍醐棚)に劣らず優雅で素晴らしい棚であるということだ。
とは言え、写真で見る限りは正直かなり地味だ。とてもじゃないが桂離宮(桂棚)・修学院離宮(霞棚)とは豪華さという点では比較にならない。
違い棚の装飾というのは、比較的地味な茶室の中で最も「雅」な部分ともいえ豪華に造られる存在の代表例であるが密庵の場合はどうなのだろう。密庵が書院としての機能を持ち合わせた茶室ということは今更なのだが、あくまで茶室前提であるが故に柄豪華絢爛というわけにはいかない。確かに写真だけで判断するのも難しいが、せっかくなのでこの龍光院棚の詳細を見てみよう。
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実は自分はかなりの棚好きだ。醍醐寺三宝院の醍醐棚や修学院離宮の霞棚など、確かに素晴らしいと思うが、密庵の龍光院棚も燻し銀の造りだ。
襖絵などを除き、この時代に作者の意匠を反映する立体的な部材の代表的なものとしては、欄間、引き手、そして棚がある。中でも棚はその筆頭である。
龍光院棚は右向き一段、左向き二段の計三段だ。細工らしい細工は、透かし彫り風の意匠で、一〜二段間は松皮菱、二から三段間は木瓜型(もっこうがた)の七宝繋ぎ。この七宝繋ぎの意匠は、障子の腰下の部分の銀の唐紙に描かれている七宝繋ぎの意匠であると思われる。
資料にある「細工を施した・・」というのはおそらく棚の角に付けられた金具のことだろう。棚面に細工らしい細工は見られない。ただ、この金具についても写真からでは細部を確認できなかった。
全体的には書院造りのキッチリしたラインと違い、緩やかに造られている。
screenshot_205.jpg
あと、この棚を造る際に参考にした写真では、棚の部分的な欠損?が見られた。元々こういう意匠なのかもしれないが、松皮菱の意匠は中央部分の菱形が無くなっているのだろうか?何となく違和感があり、また、七宝繋ぎの方も円が1/4欠損しているようだった。(現在は修復済みなのかもしれないが・・。)
screenshot_215.jpg
最後は現在の入り口部分を含めた密庵の全体を見て締めることにしよう。


さて・・・
駆け足で見てきた・・というには長いエントリーでしたが、Kazz zzaK(+あい。)ブログ開設2周年記念スペシャル

「日本一見ることが難しい国宝(建築)龍光院 書院 密庵席」

いかがでしたでしょうか?
時間を見てはチョコチョコと地味〜に造ってきたのですが、記録を見ると最初に造り出したのが8月の中旬ぐらい。実に一ヶ月半ぐらい掛けてエントリーを終えたことになります。
で、終わって言うのも何なんですが、龍光院・・というか密庵は一般的にあまり知られていないだけで、実は研究者による極めて詳細な考察がなされており、もし、本当に密庵を知りたい人間がいるとするならば一直線にそうした記録書を見るだろうと。
まぁ、現在長きに渡りエントリーしている投入堂なんかと違い、途中から「はたして詳細な写真や図面などが存在する中でCGとして造ることに意味があるのだろうか」という疑念からやや心が折れかけました。(笑)
ただ、このブログは「何となぁ〜く国宝建築に興味がある人のためのブログ」というスタンスを貫いているため、今回も「何となぁ〜く密庵に興味がある」けど、いちいち専門書を読むのはめんどくさい・・ってな方には最適に造ったつもりです。多少なりにも「参考になった」と思っていただければ造ったかいがあったというもんです。
逆に無い場合、今後こうしたエントリーの機会はなくなるでしょう。(冗談じゃなく。笑)

密庵が建築的にも斬新すぎてとんでもなく珍しいものかといえば・・そうではないようです。
ただ、時代的にも貴重な遺構であるこの密庵の固く閉ざされた扉が一般に向けて開くかというと、それはかなり難しいと思います。
「求めよ、さらば与えられん。」
こうした機会は待っていてもホンの僅かな可能性しか無く、その機会を得ることが出来るとすれば「行動」しかないでしょう。
いや、いや、行動っていっても別に悪いことをするわけじゃありませんよ。(笑)
もし何かの間違いでこの密庵を見ることができたら、このブログで再び密庵を取り上げ、更に細部に渡ってエントリーすることになるでしょう。

その時が来ることを信じて、一旦、密庵の襖を閉めることしましょう。

長いエントリーでしたが、最後までお付き合い(まだ少しありますが。)ありがとうございました。

まだ見ぬ密庵に思いを馳せて。
いうまでもなく、日本建築史において「茶室」の存在は極めて重要です。
その茶室も、所謂「私的数寄屋邸宅」として日本はもとより、世界の住宅にも多く影響を及ぼしています。

茶道が長い年月をかけて変化したように、茶室もシンプルな衝立の時代からモダンなものへと変化した。
千利休「待庵」のカミソリのような精神的緊張感の中で茶を頂くのもよいし、遠州のような華麗で流麗な空間で頂く茶もまた良い。茶を頂くという行為自体は現代までに全く変わっていないが、時代に伴いそれを頂く環境空間は大きく変化したといえる。
そうした時代の中の一つの空間として、密庵は貴重な遺構であることはもちろんである。
が、日本建築史にエポック・メイキングなものとして多大なる影響を与えたかというとそうではないように思える。研究者から見れば違うのかもしれないが、大凡素人にそれがわかるほど密庵は簡単ではないだろう。

このブログは想像でものを書くことはもちろんあるが、国宝の類いに関しては、必ずその建築を見てから個人的にあれこれ想像を巡らせた上で感想を述べることにしている。そういう意味では完全非公開国宝建築であり、未見の密庵には思いが募る。だが、そこには「見られないものだから、見たい。」という意識が無いわけでは無い。むしろ、それは高い。
確かに大きな理由の一つになるのかもしれないが、もし仮にここ龍光院・密庵が定期公開されている場所だとしたらどうだろうか?
「貴重な機会だから見逃さずにすべてを見なければ。」という意識で見るのと、
「まっ、来年もあるし、ざっと見でいいか・・。」という意識で見るのではずいぶん違う。
もちろんそこまでぞんざいな扱いにはならないだろうが、近いものはあるかもしれないことを正直に白状する。
そうなると、そこにあるのが、完全非公開国宝建築というものに憧れているのか、密庵自体に憧れているのか、自分でもわからなくなってきた。はじめは限りなく前者に近かったように思うが、色々調べていくうちに密庵の魅力に引き込まれていった。今では純粋に密庵を見たいと思う。
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「日本一見ることが難しい国宝」として、今回、龍光院密庵席をエントリーしてきたが、茶室は茶を飲むことでその本質がわかると思っている。そうでないと小堀遠州がどのような作為を持ち、この空間を造ったかわからない。
待庵だろうが如庵だろうが、遠くから眺めるだけの茶室はただの部屋に過ぎない。
欲を言えば、その場に身を置き、茶を飲む。
生意気なようだが、これが貴重な国宝茶室とはいえ正式な体感の仕方だと思っている。
だからといって、「ハイ、そうですか。」と素人に点前する場に国宝建築を提供することはもちろんあり得ない。それは無謀な希望であることはわかっている。

近い将来、何らかの条件が整えばこの密庵を見ることはできるかもしれない。ただ、そこで点前を頂くということは極めて難しい。加えて、茶席である以上は作法を学ばねばならないだろう。幸いにも多少の心得はあるが、それでも国宝茶室で点前を頂こうなど千年早い。
つまり、この密庵を見る(体感する)ためには、こちらにもそれ相応の資格、品格、心得が必要とされるのだと思う。
それでなければ、「見る」ことはできても「体感する」までには至らないだろう。
『白珪尚可磨』(はっけいなおみがくべし)
白く美しい玉もさらに磨いていかなければならない。
茶の禅語です。現状で満足せずに更に一歩進むためには更に自らを鍛える必要がある。と捉えています。

そして、今はまだ軸が無く、花の無い花入れが置かれる床。
精進あるのみ。

参考資料
●日本建築史基礎資料集成20茶室
●国宝・重文の茶室 中村昌生




2 Comments
By 原田01 03, 2017 - URL [ edit ]

密庵のCGすごいですね。思いの深さが偲ばれます。
行く前にブログをみてから行けばと思います。
会長のおかげで拝見できましたが
たしかにハードルはけっこう高かったです。

By Kazz01 03, 2017 - URL [ edit ]

原田さん こんばんは。

拙いCGにお褒めの言葉を頂きありがとうございます。
コメントを伺うと、密庵をご覧になったようですね。
羨ましい限りです。
死ぬ前に一度見てみたいです。(笑)

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